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海外で学べ、父親の教育哲学

時々勉強のため港区倫理法人会の朝食勉強会に出席します。毎回すばらしい講師のお話を聴きます。「経営に倫理を」という哲学ですが、「政治に倫理を」と政治家も学び、かつ、実践してほしい内容です。先日の講和です。講師が子供の頃父親から受けた影響のお話をしました。父親の愛情です。私自身も父親の教えを思い出しながら投影しつつ、講師のお話を聴きました。普通のサラリーマンでしたが、また、太平洋戦争中は水兵としてアメリカ軍と戦い、足に被弾、銃創があり、父親は戦争の話は一切しませんでした。不快な、思い出したくない出来事だったのでしょう。可能な限り見聞を広げ、海外でも学び、知識を得て、仕事をしろ(学問、知恵で戦え)、というのが暗黙の教えでした。学んだものは奪われません。現金を持っていると盗まれます。(もっとも盗まれるような現金はありませんが)

大学3年生の時(1969年、昭和44年)、たまたまアメリカへの交換留学のお声がかかりました。授業料相当額の奨学金(当時2000ドル、1ドル360円で72万円:当時の大卒の初任給は2万円台、早稲田の年間授業料は15万円くらい)が支給されるとはいえ生活費、渡航費などの負担は大きな額でした。しかも24年前までは戦争で戦った相手国です。父親におそるおそる話すと、即「アメリカに行け」でした。旧敵国で、かつ、世界の指導者であるアメリカに行き大いに学べ、という方針でした。両親は、多くの親もそうだと思いますが、自らの生活を切り詰め、私の勉学の費用を工面してくれたことと思います。1年間の留学を終え帰国、その翌年1971年、次にスウェーデンでインテリア、1974年念願のフルブライト奨学金を得て再度アメリカ、テキサス州ヒューストンにあるライス大学(1970年オハイオ州の友人や教授たちがこれからは南部の時代だと助言がありました。当時の人口100万全米6位、現在200万人全米4位)に留学しました。

3度の留学で学んだ内容はそれこそ世界最先端の学問、知識で、また、多くの友人を得ました。実務に就いてから留学経験を評価いただき、留学で学んだ内容を武器に仕事をしました。スウェーデンで学んだオフィスランドスケープは20年くらい日本で理解されませんでした。そのくらいオフィス環境の快適化は日本で遅れていました。ライス大学で学んだ設計方法論(物事の進め方、クラスター分析)も10年くらい日本で理解されませんでした。ヒューストン市の都市計画(ノンゾーニング)の方法も未だに日本で理解されていません。1975年のニューヨーク市の財政破綻も日本の自治体財政の教訓として生かされていません。ニューヨーク市財政破綻をご存知の方は自治体関係者や政治家でもほとんどいないようです。

2000年頼まれ港区長に就任しました。元区長からの要請でした。3度の留学で学んだことを活かし、港区政を展開しよう、3度の留学で学んだことを武器に頑張ろうと決意しました。ところが、就任後2か月くらいして、私を後継者に引っ張り出した元区長氏から留学の話はするなと言われました。元区長氏は40年以上に亘り港区役所に勤務したことが仕事の武器です。私は行政経験、政治経験はありません。私の仕事の武器は留学で体験した異文化に溶け込む順応性と留学で体験、学んだ内容です。大使館が80もあり大使や外国人と英語を話し彼らと直接コミュニケーションを取れることは大いに役立ちました。私自身大使らに港区を大いにPRし、日本に進出する企業があるなら是非港区に立地してくださいと直接誘致活動をしました。「国際都市港区」、また、港区役所は「異文化理解」を標榜しています。実態は、英語を話す幹部はゼロ、異文化理解は以上のような事情で幹部の口先だけでした。しかも、区長職後半には区長を支えるべき政策経営部長N氏から留学の体験を話するなと言われたのは驚きでした。嫉妬、ヤッカミの世界でしょう。私の人生そのもの、私の父親の教育方針を侮辱することです。

ハンガリーからイタリア人家族が観光で来日

昨年10月ハンガリーのブダペストで開催された国際会議に出席した際お目にかかったイタリア人弁護士(ロンドンにある大手弁護士事務所のブダペスト支店に勤務)家族が観光で来日しました。ご夫婦と中学生の双子の男の子の4人家族です。東京と京都で一週間づつ滞在、その間、箱根温泉の旅館に一泊、京都滞在中広島まで足を伸ばすそうです。羽田空港まで迎えに行き、浅草のホテルまでご案内し、その後、浅草、上野公園を散策、上野の日本食レストランで日本食をご招待しました。

日本に興味を持って下さったことに敬意です。ハンガリーは温泉大国。日本も温泉大国。ハンガリーは都市中に温泉が立地、健康目的で、水着を着て入浴します。彼らに日本の温泉は裸で入浴し、水着は着用禁止です、と教えてあげました。浅草で仏教伽藍の説明をしました。浅草寺に参拝、寺院の参拝方法を説明、父親がおみくじを引きました。双子の中学生の男の子はブダペストの国際学校に在籍、英語、ハンガリー語、ドイツ語などを学び、母国語であるイタリア語含め中学生時代から数か国語を学んでいます。多くの外国人の子弟と交流しています。国際感覚を身に着けます。彼らが成長し、仮にこうした人物と日本人がディベイトをしたら日本人が彼らに勝つのはなかなか容易なことでないと感じました。

アメリカ・テキサス州エルパソ市とオハイオ州デイトン市での銃乱射事件

8月4日日曜日悲しい事件報道がありました。アメリカ、深南部のテキサス州エルパソ市で銃の乱射で20人が殺されました。容疑者は逮捕されました。その数時間後中西部オハイオ州デイトン市で銃の乱射で9人が殺されました。容疑者は事件発生後1分後に駆けつけた警察官に射殺されました。悲しい事件です。

私は1969年オハイオ州にあるThe College of Woosterに留学し、その年の12月デイトン市郊外にある有名な空軍博物館を視察しました。展示場格納庫の建築が大規模で見る価値があると聞きました。偶然、長崎に原爆を落下したB29が屋外展示されていました。デイトン市内をドライブしながら結構大きな都市という印象でした。1974年フルブライト奨学金でテキサス州ヒューストン市にあるライス大学建築大学院に留学しました。テキサス州は全米で最大面積の州です。ヒューストン市はテキサス州の東側に位置しエルパソ市は西に位置しています。エルパソ市を訪問する機会はありませんでしたが、メキシコ国境と接した都市です。

事件に対する行政や捜査当局の対応についてです。アメリカでは事件捜査は自治体警察が担当します。しかし、テロ事件などはその困難性、特殊性などからFBI(司法省の連邦捜査局)が担当します。エルパソ市でも、デイトン市でも市長と市警察本部長が合同で記者会見しました。また、テロ事件であることからFBIの現地支部長が記者会見し事件の説明をし、今後の見通しを語りました。検察官も同様に事件の見通しについて記者会見しました。日本ですと記者が捜査関係者に取材し、「捜査関係者によると」という形の報道です。警察本部長や検察は表に出てきません。今後の情報公開、組織のトップが責任を取るという傾向から本部長など責任者が堂堂、頻繁に記者会見するべきでしょう。

また、事件報道で犠牲者の氏名、年齢、人種が報道されます。可能な限り正確に報道するというのがアメリカの報道の基本姿勢です。京都のテロ事件で犠牲者の氏名を警察は公表しませんが、犠牲者に対する日本人のメンタリティでしょう。日米の文化の違いを理解しなければいけません。

ニューヨーク市CO2削減量10年で「わずか」14.8%さて日本は?

先日ニューヨークタイムズの記事でこの10年でCO2削減率は「わずか14.8%」と書かれていました。「わずか」という表現に驚きました。昨年4月明治大学公共政策大学院紀要論文に「アメリカの環境政策」について5万字の小論を寄稿しました。ご関心ありましたらご覧ください。インターネットで閲覧できます。パリ協定によると、各国の削減目標は以下のとおりです。アメリカ:2025年までに2005年比で26~28%削減。日本は2026年までに2013年比(13億1700万トン)で26%削減。日本は毎年平均3424万トンづつ削減しなければなりません。2014年は2013年比5000万トン減、2015年は前年比4000万トン減、2016年は前年比1900万トン、2017年は前年比1800万トン。対前年比の削減量が次第に減少傾向にあります。この傾向が続くとパリ協定の約束は空念仏になりそうです。

日本国内で最もCO2を排出する東京都は2013年6548万トン。2014年6212万トン、前年比336万トン減、2015年6048万トン、前年比164万トン減。パリ協定の数値目標に基づくと目標年の排出量は4745万トン、毎年130万トンづつ削減しなければなりません。また、東京都環境基本計画の目標で2030年までに温室効果ガス2000年比30%削減と書かれています。2000年の排出量は5889万トン。東京都の目標年の排出量は4122万トン、毎年59万トンづつ削減しなければなりません。2005年排出量6167万トン、2000年比278万トン増加、2010年5874万トンで2011年比278万トン増加、2013年6548万トンで2011年比440万トン増加と大幅な増加の年があります。確実に削減させる政策を取らなければなりません。

東京都で最もCO2を排出する港区は2013年432.4万トン。パリ協定に基づくと2026年の目標は327.6万トン。削減量105.8万トン、毎年8万トンづつ削減しなければなりません。2014年は前年比13.8万トン削減、2015年は前年比22万トン削減、2016年は前年比15.7万トン削減。良い傾向と思います。一方でオフィスビルやマンションがますます増加傾向にありますのでうっかりするとCO2が再び増加する恐れがあります。しっかりとCO2削減を管理する必要があります。

懐メロ・困難な時耳にした曲・異文化理解不能な最高幹部

懐メロ、個人個人で異なります。感激した曲、元気をもらった曲、何かの時耳にした曲。困難な時勇気をもらった曲。私の場合、小学校、中学校、高校時代に感激した曲がいくつかあります。特に大学時代、留学した際、徹夜でレポート書き(困難な場面で)している時に耳にした曲は忘れられません。50年前アメリカ、オハイオ州The College of Woosterに留学中、アクエリアスというテンポの良い、のりの良い曲、歌詞は覚えていませんが、何度も流れてくる曲なのでメロディを覚えてしまいました。ガールフレンド?が口ずさんでいたガーシュインの「サマータイム」も覚えました。

1971年スウェーデンに留学した際、設計事務所で図面を製作中にラジオからスウェーデンのジャズが聞こえてきました。いくつかメロディを覚えました。曲名は不明ですが。スウェーデンジャズというジャンルを体験しました。

1974年テキサス州ヒューストンのライス大学の建築大学院に留学した際。試験の出来が自信なく、アパートに戻り自信喪失に陥った際「サニー」という曲がラジオから流れてきました。短調でリズム感の良い曲で、気分がめいっている時でしたからサニーの曲でずいぶん元気を取り戻した感覚を得ました。南米からの留学生がいましたので、ラテンソングの定番、べサメムーチョ、キサスキサスなど教えてもらいました。

カラオケはもともと数年に1回程度付き合いで参加する状況ですが、上記の歌が頭をよぎり、上手い下手は別として「義理」で歌います。港区長時代、地域のイベントなどでお付き合いで歌わされました。私の場合、無理して、気取って、外国の歌を歌うのでなく文字通り私の人生に関わった歌として上記の歌の一部を歌いました。すると、最高幹部から「日本の歌を歌え」とお説教。港区は異文化理解を謳いつつ実は異文化理解が全くできな幹部がいました。

静岡市立美術館視察、オバリン大学エインズワースコレクション(浮世絵)展

7月下旬静岡市立美術館を視察しました。駅前の約10階建てのビルの3階に立地しています。駅前で夜の7時まで開館。便利です。ホールの天井高さ6mあります。サインデザインもすばらしいです。展示は、アメリカ、オハイオ州オバリン大学美術館のエインズワース・コレクション(浮世絵)の展示です。オバリン大学を卒業したエインズワース女史は日露戦争後の時期に来日、浮世絵を収集、持ち帰りました。当時、女性一人で(実際に一人かはわかりませんが)来日した勇気に敬意を払いたいです。(内向きと言われる日本人はエインズワース女史の行動力を学ぶべきです)母校のオバリン大学に寄贈、オバリン大学の美術館に収蔵・展示されています。オバリン大学はアメリカのプレスビテリアン(長老派教会)系の大学です。早稲田大学の姉妹校で、私が早稲田の交換留学で学んだウースター市と30キロ程度の距離です。(アメリカでは隣町と言えます)人口約1万人、学生数2000人です。有名人ではライシャワー(元駐日アメリカ大使)が卒業生です。

話は飛びますが、日本で地方都市から若者、特に女性が東京に移住し、自治体も、地方の大学も困ったと騒ぎ、東京を非難し、挙句の果てに地方救済と称し、政府は東京での大学立地を10年間禁止しました。ばかげた施策です。人の意志を無視した共産主義的政策です。アメリカではオバリン市は人口1万人の農村部にある自治体です。オバリン大学はアメリカ中から、また、世界から留学生が学んでいます。そして世界的レベルといってよい浮世絵コレクションを持っています。地方都市の首長さん、地方の大学の学長さん、アメリカやヨーロッパの地方の小都市の自治体やこうした小都市に立地している大学の経営方法を学ぶべきです。

アメリカの大学入学制度

1969年アメリカ、オハイオ州The College of Woosterに早稲田大学交換留学生として留学しました。大学の推薦ですから先方の入学試験なしで入学しました。アメリカの入試は日本のように決められた日時に一斉の入学試験が実施するという方式でありません。共通一次のような「英語」「数学」の基礎学力を測定する試験と高校の推薦状、自己申告書で評価されます。もっとも最近の事情は知りませんが。2度目の留学は1974年フルブライト奨学金(アメリカ政府の奨学金制度)を頂きテキサス州ヒューストン市にあるライス大学の建築大学院に留学しました。日本の大学院入学と全く異なります。19年6月24日読売新聞の大隅良典氏のインタビュー記事によると「ニューヨーク市のロックフェラー大学に紹介状書いてもらい留学したいと手紙を書いたらすぐ来てよいと教授から返事が来た」と記載されています。私もほぼ同じ体験をしました。ライス大学建築大学院に、自己紹介の手紙を郵送しましたら直ちに建築学科主任教授から「あなたを大学院に受け入れます」という返事が来ました。驚きました。まず即回答が来たこと。次に、合格の手続きがいたってシンプルであること。日本の大学院でこのような手続きをしているところはないでしょう。こうした弾力的な制度も大切と思います。

アメリカ・アリゾナ州フェニックス市警察官の無礼な行為に市長謝罪

19年6月16日ニューヨークタイムズによりますと、アメリカ・アリゾナ州の中核都市人口130万人のフェニックス市で、警察官が取り締まりの過程で小さな子供の居る前で拳銃を突きつけ逮捕した行為に対し、ケイト・ギャレーゴ市長(女性)が謝罪した、とのことです。アメリカは自治体警察ですので、市長が警察の指揮官を兼ねています。気づき。①市長は真面目で公正な人物であること。市長は警察組織の指揮官ですから、事件を起こす人物、事件をもみ消そうとする人物は市長になれません。日本では、最近の記憶では伊東市、上尾市、山梨市の市長が収賄、官製談合などで逮捕されました。アメリカではそもそもこの程度の人物は市長、政治家になれません。②アメリカでは事件があると直ちに警察の指揮官である市長、または、警察部長が記者会見を行い、事件報道をします。日本では重大事件が生じても本部長など警察幹部が直ちに記者会見をすることはほとんどありません。報道記事も「警察関係者への取材によると・・・」です。アメリカのように事件が生じたら直ちに責任ある立場の方が記者会見すべきでしょう。

シカゴ市長選挙、初の黒人、女性。17人の候補者から。

4月2日シカゴ市長選の決選投票が実施され、ロリ・ライトフット氏(初の女性、黒人)が選ばれました。シカゴ市はアメリカで3番目の大都市です。彼女は元連邦検事でシカゴ市の腐敗を追及してきました。同性愛者であることを公言しています。彼女の両親は貧困家庭でありましたが、奨学金を得てミシガン大学卒、その後、シカゴ大学法科大学院を修了し、連邦検事になりました。彼女曰く、「両親は貧しかったが、気高さを持ち、子供に対し夢を抱いていました。子供に対し正直に生きろ、礼儀正しくしなさい、一所懸命働きなさい、勉強しなさい、信心深くなりなさいなど教えました。」こうした教えが今日の私を作りました。

選挙について、候補者が17名、その多くは立派な経歴、学歴、資格を所持しています。日本の選挙と比較し、多くの候補者が出馬するということは市民にとり選択肢の幅が多いです。、日本の市長選は2人から4人程度の立候補者数です。選択の幅が狭いです。アメリカの選挙制度と比較し日本は立候補するのに障害が多いと思います。

私事ですが、ライトフット女史の両親の教育方針と私の両親の教育方針の類似性についてです。私の父親は公務員で、経済的に見れば標準的な家庭でしたが、親の方針は「十分な教育を受けるべく頑張れ、機会があれば海外で勉強しろ、趣味を学び広げろ、贈答品が送られて来たら送り返せ、真面目に公正に生きよ、人が見ていないところで努力せよ」でした。ライトフット女史の両親と同じような内容です。そうした教えが今日の私を作っています。豊かでない家計でしたが、親の応援で海外で3度留学できました。港区長に就任後、こうしたエピソードを区民にしました。すると、私を後継者に引っ張り出した元区長S氏や区長をサポートすべき立場の政策経営部長N氏が経歴を語るな、留学話をするななどお説教がましい指示。自分と考えや経歴が異なるものを排除するという発想には困りました。異文化理解を公式に発言しつつ港区役所の一般的な経歴や人生観と異なる人物、考えの存在を否定するのですから驚きでした。港区には1割の外国人がいます。港区職員にはぜひ異文化理解を単なる言葉でなく実質理解していただきたいと念じております。

先日港区総務課(人権担当)に投書しました。未だに回答がありません。港区政の現実です。

映画、グリーンブックを見ました。人権、異文化理解を学びました。

先日、アメリカ映画、グリーンブックを見ました。1962年の実話を基にした内容です。人種差別が激しい時代、ニューヨークで成功した黒人ピアニストが南部にコンサートツアをし、移動の車の運転手(ボディガード兼務)(イタリア系移民の子供)との間に友情、異文化理解が進むというストーリーです。映画の内容は映画批評記事を参考にしてください。

映画のタイトルは黒人用が旅行する際のホテルの案内書(黒人が宿泊できるホテルなどが記載)グリーンブックに基づきます。当時、南部は黒人差別がひどく、バスも白人席、黒人席と別々、レストラン、バーなども白人用の店は黒人が入れないルールでした。また、街によっては黒人は夜間外出禁止という規則がありました。黒人男性が白人女性と恋愛したらリンチに遭うといった状況でした。

私自身、1969年中西部オハイオ州(現在、産業が凋落し、錆びついたラストベルト、スノウベルトと称される地域)のThe Collge of Woosterに交換留学で1年間過ごしました。映画で出てくる州や都市の名前を懐かしく見ました。映画は当時のアメリカ社会を知るに役立つ内容です。また、礼儀正しい、言葉づかいの正しい黒人ピアニストとボディーガードする程度の粗野なイタリア系白人との文化の違いが相互にどのように理解され融合するか、ストーリ展開は興味あります。

留学に際し、率直な気持ち、1945年までアメリカは日本と戦争をし、父親の世代は戦場にいたわけですから、大学で友人やご両親達から旧敵国の日本人留学生、しかも、英語も十分話せず、体は小さい、メガネをしているなハンディだらけで、いじめの対象になるのではと心配しながら大学に行きました。想像と逆で友人から親切にされ、友人宅に招かれるとご両親から暖かいおもてなしをしていただきました。(24年前までは日本軍と戦った方たちです)日本という異文化を十分に理解しようとする意欲、意志を感じました。私自身、グリーンブックの映画の主人公の黒人ピアニストのようにマナー良く接し、言葉づかいも丁寧に話したことが信頼感を寄せていただいた理由かもしれません。とりわけ女子学生に親切にされました。(自慢話しではありません)

話変わり、当時のS区長から突然港区長をやってくれと要請され、社会貢献のつもりで区長に就任し仕事を一所懸命しました。3度の留学、世界最高水準の学問を身に着けた経験を基に、さまざま新鮮な政策を創りました。しかし、3度の留学などの経歴は、学校卒業後港区役所に就職し、港区役所のことしか知らない、知ろうとしない、私を急に後継者に担いだS元区長とり、「異文化」を理解する努力はせず、私を「異質」の物と見たようです。(なぜ後継者に選んだのか理解に苦しみますが)私の区長時代のN政策経営部長(その後、副区長、現港区スポーツ文化財団理事長)も異文化を体験した原田の経歴や意識を毛嫌いし、ある種のイジメに走りました。これが港区の最高幹部の意識と悟った次第です。港区が「異文化理解を進めましょう」「人権理解(さまざまな人間がいることを理解しましょう)を進めましょう」と主張しているのは空念仏です。現在の最高幹部も異文化理解、口で発言しても、心から理解できず、空念仏と思います。グリーンブックの映画、港区の最高幹部や人権担当職員、国際分野担当職員にも見て欲しいです。