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ベルリンの壁崩壊30年、共産主義体制の反省、国民が選ぶ体制、社会?

1989年11月9日ベルリンの壁が崩壊しました。私は1999年11月国際建築アカデミー(本部はブルガリア)が主催するベルリンの壁崩壊10周年記念シンポジウムに招聘され参加しました。共産党独裁体制だった旧ソ連が崩壊し、衛星国だった東欧諸国で民主化が広がりました。言論や移動の自由が認められ、自由主義経済体制となりました。

私はブルガリアにある国際建築アカデミーの客員教授を務め、多くのブルガリア人、東欧の建築家とお付き合いしています。また、1980年代初頭妻が世界の指導的立場のロシア人チェリスト、ロストロポービッチが来日した際通訳をしたのでご本人から共産党政権時代の実態を直接聞きました。こうした実態を日本のマスコミはほとんど伝えませんでした。アメリカの批判をしても(アメリカはマスコミを脅しませんから)共産主義国家の批判はタブー(特派員が逮捕されたり強制退去されることを恐れていました)でした。ロストロポービッチ氏は「ソ連共産党員が文化芸術を支配し、共産党のために演奏しろ、勝手な芸術解釈は認めない」と強制されたそうです。また、氏はノーベル文学賞作家ソルジェニツィンを隠れて支援したし、与えられていた高級住宅、高級乗用車などの特権は全てはく奪され、その上、国外追放され、(世界的有名人でしたから逮捕されませんでした)、ソ連共産党の歴史からロストロポービッチの名前は全て抹殺されました。

チェッコスロバキアの建築家は共産党政権時代、自由に出版物に接することができなかったので、日本大使館に行き日本からの建築雑誌を見て日本の建築デザインについて情報収集したと言っていました。

1960年代、日本人ピアニスト田崎悦子さんが留学先のニューヨークのジュリアード音楽院からハンガリー、ブダペストのリストの勉強をしたいと訪問した際、ハンガリーの秘密警察が田崎さんをずーっと監視していました。(無駄な、バカバカしい行為)知人のハンガリー人ピアニストと面会した際、ハンガリー人ピアニストは小さい声でささやくように田崎さんに話しかけたそうです。盗聴マイクがあちらこちらに仕掛けられているからです。

1990年頃早稲田の建築の後輩がモスクワ大学に留学しました。多くの仲間がアメリカや西欧に留学しているので珍しいところに留学しようとモスクワ行きを決めたそうです。彼の話では、モスクワでパン一個買うのに3時間行列に並んだそうです。

政権批判はタブー、政権批判をすると逮捕、監禁、下手すれば死刑。ハンガリー動乱(ハンガリー市民がソ連に抵抗し、弾圧された事件)やプラハの春事件が思い出されます。今や、多くの東欧の仲間が旧共産党時代を批判しています。

3度留学(アメリカとスウェーデン)した体験で、多くの分野で世界中からアメリカに学生、研究者が集まります。自由に議論できるからです。スポーツ選手も芸術家もアメリカを目指す方は多くいます。

ベルリンの壁を超えようとして東ドイツの警察、国境警備隊(?)に多くの東ドイツ人が射殺されました。東ドイツ政府は銃で脅さなければ国民は西ドイツに逃げるという自らの国家の欠陥を承知していました。自由に行き来きできることは最低限の権利です。壁を作り、銃で脅したわけです。ばかげた政治、統治が行われていました。

改めてこうした歴史を学ぶ必要があります。アメリカとスウェーデンで学んだこと、友人や教授たちから「思うことは何でも発言せよ」でした。相手がだれであっても。上司でも、指導教官でも。

スウェーデン研究所で学生の研究発表

10月31日(木)スウェーデン大使館でスウェーデン含めた北欧4か国に訪問、2週間程度でフィールド調査した内容を明治大学の学生、東洋大学の学生、アイセックという学生の交換留学を展開する世界的な公的組織のアイセックの学生がこの夏に体験した活動報告をしました。指導教官の指導よろしく学生たちは立派な調査をし、立派にプレゼンをしました。私が同年齢の学生の立場なら、こうした素晴しい調査結果を出せたかどうか。私は1971年スウェーデンに留学しましたので、そうした観点から学生のプレゼンを拝聴しつつ学びました。

調査に参加した学生は順番に報告しました。働き方、都市環境、職場環境、小学校見学、・・・すばらしい経験です。彼ら彼女らが将来社会の指導者レベルに到達したら大いに日本を変えてくださいと応援のメッセージを伝えました。

1971年、ストックホルムで私が体験したこと。ストックホルム工科大学で6割が女子学生。地下鉄、バスの運転手の半数が女性。残業なし。午前、午後30分休憩時間。小学校教育では「個」重視、グループ学習。日本の社会と全く異なりました。現在もです。

私はコメントで、今後、①職業別での女性の比率、(特に建築やエンジニアリングの世界で)、②労働対価としての給料、③議会での議論の進め方、女性政治家の活躍ぶり、④都市構造、東京圏では1時間半程度の通勤は当たり前、だから子育てがしにくい状況、職住近接が必要です、⑤防衛分野での女性の社会進出、などの分野で研究を発展させてはいかがか、と発言しました。学生の皆様、頑張ってください。

アメリカ、オハイオ州フィンドレー市交流団来日

アメリカ、オハイオ州フィンドレー市の交流団が来日しました。ご縁有り10月27日(日)川口ロータリークラブ主催の歓迎懇親会に私も招かれご挨拶しました。メンバーはクリスティーナ・マーン(Christina Muryn)市長(女性27歳)、ディーナ・オストランダー(Dina Ostrander)女性市議会議員、パット・サドウスキー(Pat Sadowski)弁護士、フィンドレー市商工会議所・経済開発組織理事長、ティム・マイリー(Tim Mayle)市経済開発局長、クリス・オストランダー(Chris Ostrander)経済開発局技術アドヴァイザー、川村宏明フィンドレー大学準教授の6名です。経済ミッションで、川口市(姉妹都市、ロータリークラブの姉妹クラブ)、福井県庁、オハイオ州に進出している日本企業など、訪問したそうです。フィンドレー市は人口5万人。世界的企業が市内に進出しています。ラストベルト(錆びついた地域)の中で財政は豊です。

驚き。まず、市長の若さです。オハイオ州で最も若い市長です。若くても周囲がついてゆきます。日本では(港区では)政策立案能力がなくてもただベテランだというだけで「俺が影の区長だ」と威張りまくるベテラン議員がいましたが。日本(港区)のガバナンスは幼稚園レベルです。次に、交流ミッション団のメンバー構成です。日本だと、海外視察というと、政治家だけ、行政職員だけ、研究者だけ、民間企業職員だけ、というスタイルが多いと思いますが、フィンドレー市の交流団は政官学民と横串で連帯し来日しました。お互いが同じ体験を共有し、政策の決定が速やかにできます。3番目はメンバーはファーストネームで呼び合い、官民の格差、先輩後輩の年齢格差などなく、全員水平型のチームです。4番目は精力的に動き回っています。こうした方法は日本も参考にすべきです。日本で政治家の出張は半分は遊びではないかと疑念を感じています。報告書は自ら書かないで旅行代理店が営業目的もありゴーストライターを務めていると思います。今後、フィンドレー市との交流が発展することを祈っております。

私は50年前の1969年早稲田大学の交換留学生としてオハイオ州にあるウースター大学に留学しました。オハイオ州は第二の故郷です。懐かしい気持ちで6人のメンバーとお話をしました。

ニューヨーク市警察委員長が実施。不祥事対応。不正警官を見て見ぬふりする同僚警官は同罪。港区では。

「ニューヨーク市の治安政策」についてこの春10万字の小論を明治大学ガバナンス研究科紀要論文で発刊しました。インターネットで閲覧できます。90年代ニューヨーク市の警察委員長を勤めたブラットン氏が尽力し、ニューヨーク市の犯罪を激減させた中心人物です。

一方不祥事対策も見事です。不祥事を起こした警察官に対し厳し態度で臨みました。多くのメディアを集め、犯罪を犯した警察官から警察官バッジを取り上げるセレモニーをしました。そして、「警察官に就任した際、社会のために警察官バッジを使うと誓いの言葉を述べたのに、警察官バッジを私利私欲のために悪用しけしからん。」とお説教しました。で、懲戒免職にしました。日本の警察も学ぶべきです。同様のことをすべきです。

さらに、お説教で訓示した事。「同僚の警察官は不正を見て見ぬ振りし、警察官の不正を助けた。したがって同罪である。」と大変厳しいお言葉。

港区役所で、官製談合、開発利権を区長の立場で耳にし、私は厳しく取り締まる姿勢を取りました。議員が主導しているという話を耳にしました。実際事務手続きは行政がします。つまり、行政側が手を貸さなければ不正はできません。私の時のU助役、N政策経営部長などはこうした不正を知っていました。しかし、不正を改善しようとしませんでした。私が強引に正しました。こうした最高幹部は同罪です。その程度の意識の幹部職員でした。残念なことでした。現区長の武井さんは私の時の人事課長。おとなしい人物。建築や都市開発の知識は無し。そうした勢力にとり都合が良かったのでしょう。

エンテベ空港の7日間を観賞しました

映画「エンテベ空港の7日間」を観ました。実話に基づく映画です。1976年夏エールフランス機がハイジャックされ、ハイジャック犯がウガンダのエンテベ空港に強硬着陸。エールフランス機ですから基本的にはフランス政府の対応ですが、乗客の大半がユダヤ人(イスラエル国籍)、ハイジャック犯の要求はイスラエルを中心に収容されている親パレスチナ・テロリストの解放要求ですのでイスラエル政府が中心になり対応しなければなりません。実際に発生した事件ですから、詳細は過去の報道を参考にしてください。

私は危機管理の材料として記憶を継続しています。アメリカ留学から帰国しまもない時の事件でしたので現在でも覚えています。改めて映画を観て感じたこと、以下にコメントします。

まず、イスラエル政府の対応。国家の威信をかけ、力づくで国民の生命を守るという固い意志を持っていることです。そして原理原則、テロリストと交渉はしない、ということです。(日本政府にはなかなか困難な内容です)

次に、国家的な危機に際しての議論のマナーです。映画ですからどこまで事実か分りませんが、欧米に留学した経験からそうだろうなと同感の場面がありました。首相、国防大臣、軍の最高司令官のマナー、会話の方法です。時代は異なりますが、それぞれ、たばこをふかしながら時に笑顔で会話をしていることです。雰囲気は友達同士の会話です。日本なら大声出したり、怒鳴り声になったりするでしょう。危機の時こそこうした精神的余裕が大切と思いました。

次に、救出作戦の検討、演習、実行です。太平洋戦争の時、インパール作戦(机上の論理だけで実行し全滅した愚かな作戦の事例、今日では愚かな作戦と評価)、国民に竹槍を持たせ米軍と戦えと命じたバカな日本軍指導者がいました。今日も、倒産した日本航空の経営者、会社をダメにした東芝社長、不名誉な事件を起こしたオリンパス社長、日産の経営陣など、ばかな司令官が多くいますが。首相と国防大臣が軍の最高司令官に作戦を検討させ、データに基づきその成功の確率を判断させ、作戦の方針が決まれば事前に演習。おそらく、作戦が成功した背景には第一の当事者であるフランス政府、それから、アメリカ政府などの情報提供、助言などがあったと思います。つまり、常時の連携、信頼関係の維持です。首相と国防大臣は政治責任はすべて自分にあると発言。

一つの映画を観ながら多くのことを学びました。お勧めの映画です。

海外で学べ、父親の教育哲学

時々勉強のため港区倫理法人会の朝食勉強会に出席します。毎回すばらしい講師のお話を聴きます。「経営に倫理を」という哲学ですが、「政治に倫理を」と政治家も学び、かつ、実践してほしい内容です。先日の講和です。講師が子供の頃父親から受けた影響のお話をしました。父親の愛情です。私自身も父親の教えを思い出しながら投影しつつ、講師のお話を聴きました。普通のサラリーマンでしたが、また、太平洋戦争中は水兵としてアメリカ軍と戦い、足に被弾、銃創があり、父親は戦争の話は一切しませんでした。不快な、思い出したくない出来事だったのでしょう。可能な限り見聞を広げ、海外でも学び、知識を得て、仕事をしろ(学問、知恵で戦え)、というのが暗黙の教えでした。学んだものは奪われません。現金を持っていると盗まれます。(もっとも盗まれるような現金はありませんが)

大学3年生の時(1969年、昭和44年)、たまたまアメリカへの交換留学のお声がかかりました。授業料相当額の奨学金(当時2000ドル、1ドル360円で72万円:当時の大卒の初任給は2万円台、早稲田の年間授業料は15万円くらい)が支給されるとはいえ生活費、渡航費などの負担は大きな額でした。しかも24年前までは戦争で戦った相手国です。父親におそるおそる話すと、即「アメリカに行け」でした。旧敵国で、かつ、世界の指導者であるアメリカに行き大いに学べ、という方針でした。両親は、多くの親もそうだと思いますが、自らの生活を切り詰め、私の勉学の費用を工面してくれたことと思います。1年間の留学を終え帰国、その翌年1971年、次にスウェーデンでインテリア、1974年念願のフルブライト奨学金を得て再度アメリカ、テキサス州ヒューストンにあるライス大学(1970年オハイオ州の友人や教授たちがこれからは南部の時代だと助言がありました。当時の人口100万全米6位、現在200万人全米4位)に留学しました。

3度の留学で学んだ内容はそれこそ世界最先端の学問、知識で、また、多くの友人を得ました。実務に就いてから留学経験を評価いただき、留学で学んだ内容を武器に仕事をしました。スウェーデンで学んだオフィスランドスケープは20年くらい日本で理解されませんでした。そのくらいオフィス環境の快適化は日本で遅れていました。ライス大学で学んだ設計方法論(物事の進め方、クラスター分析)も10年くらい日本で理解されませんでした。ヒューストン市の都市計画(ノンゾーニング)の方法も未だに日本で理解されていません。1975年のニューヨーク市の財政破綻も日本の自治体財政の教訓として生かされていません。ニューヨーク市財政破綻をご存知の方は自治体関係者や政治家でもほとんどいないようです。

2000年頼まれ港区長に就任しました。元区長からの要請でした。3度の留学で学んだことを活かし、港区政を展開しよう、3度の留学で学んだことを武器に頑張ろうと決意しました。ところが、就任後2か月くらいして、私を後継者に引っ張り出した元区長氏から留学の話はするなと言われました。元区長氏は40年以上に亘り港区役所に勤務したことが仕事の武器です。私は行政経験、政治経験はありません。私の仕事の武器は留学で体験した異文化に溶け込む順応性と留学で体験、学んだ内容です。大使館が80もあり大使や外国人と英語を話し彼らと直接コミュニケーションを取れることは大いに役立ちました。私自身大使らに港区を大いにPRし、日本に進出する企業があるなら是非港区に立地してくださいと直接誘致活動をしました。「国際都市港区」、また、港区役所は「異文化理解」を標榜しています。実態は、英語を話す幹部はゼロ、異文化理解は以上のような事情で幹部の口先だけでした。しかも、区長職後半には区長を支えるべき政策経営部長N氏から留学の体験を話するなと言われたのは驚きでした。嫉妬、ヤッカミの世界でしょう。私の人生そのもの、私の父親の教育方針を侮辱することです。

ハンガリーからイタリア人家族が観光で来日

昨年10月ハンガリーのブダペストで開催された国際会議に出席した際お目にかかったイタリア人弁護士(ロンドンにある大手弁護士事務所のブダペスト支店に勤務)家族が観光で来日しました。ご夫婦と中学生の双子の男の子の4人家族です。東京と京都で一週間づつ滞在、その間、箱根温泉の旅館に一泊、京都滞在中広島まで足を伸ばすそうです。羽田空港まで迎えに行き、浅草のホテルまでご案内し、その後、浅草、上野公園を散策、上野の日本食レストランで日本食をご招待しました。

日本に興味を持って下さったことに敬意です。ハンガリーは温泉大国。日本も温泉大国。ハンガリーは都市中に温泉が立地、健康目的で、水着を着て入浴します。彼らに日本の温泉は裸で入浴し、水着は着用禁止です、と教えてあげました。浅草で仏教伽藍の説明をしました。浅草寺に参拝、寺院の参拝方法を説明、父親がおみくじを引きました。双子の中学生の男の子はブダペストの国際学校に在籍、英語、ハンガリー語、ドイツ語などを学び、母国語であるイタリア語含め中学生時代から数か国語を学んでいます。多くの外国人の子弟と交流しています。国際感覚を身に着けます。彼らが成長し、仮にこうした人物と日本人がディベイトをしたら日本人が彼らに勝つのはなかなか容易なことでないと感じました。

アメリカ・テキサス州エルパソ市とオハイオ州デイトン市での銃乱射事件

8月4日日曜日悲しい事件報道がありました。アメリカ、深南部のテキサス州エルパソ市で銃の乱射で20人が殺されました。容疑者は逮捕されました。その数時間後中西部オハイオ州デイトン市で銃の乱射で9人が殺されました。容疑者は事件発生後1分後に駆けつけた警察官に射殺されました。悲しい事件です。

私は1969年オハイオ州にあるThe College of Woosterに留学し、その年の12月デイトン市郊外にある有名な空軍博物館を視察しました。展示場格納庫の建築が大規模で見る価値があると聞きました。偶然、長崎に原爆を落下したB29が屋外展示されていました。デイトン市内をドライブしながら結構大きな都市という印象でした。1974年フルブライト奨学金でテキサス州ヒューストン市にあるライス大学建築大学院に留学しました。テキサス州は全米で最大面積の州です。ヒューストン市はテキサス州の東側に位置しエルパソ市は西に位置しています。エルパソ市を訪問する機会はありませんでしたが、メキシコ国境と接した都市です。

事件に対する行政や捜査当局の対応についてです。アメリカでは事件捜査は自治体警察が担当します。しかし、テロ事件などはその困難性、特殊性などからFBI(司法省の連邦捜査局)が担当します。エルパソ市でも、デイトン市でも市長と市警察本部長が合同で記者会見しました。また、テロ事件であることからFBIの現地支部長が記者会見し事件の説明をし、今後の見通しを語りました。検察官も同様に事件の見通しについて記者会見しました。日本ですと記者が捜査関係者に取材し、「捜査関係者によると」という形の報道です。警察本部長や検察は表に出てきません。今後の情報公開、組織のトップが責任を取るという傾向から本部長など責任者が堂堂、頻繁に記者会見するべきでしょう。

また、事件報道で犠牲者の氏名、年齢、人種が報道されます。可能な限り正確に報道するというのがアメリカの報道の基本姿勢です。京都のテロ事件で犠牲者の氏名を警察は公表しませんが、犠牲者に対する日本人のメンタリティでしょう。日米の文化の違いを理解しなければいけません。

ニューヨーク市CO2削減量10年で「わずか」14.8%さて日本は?

先日ニューヨークタイムズの記事でこの10年でCO2削減率は「わずか14.8%」と書かれていました。「わずか」という表現に驚きました。昨年4月明治大学公共政策大学院紀要論文に「アメリカの環境政策」について5万字の小論を寄稿しました。ご関心ありましたらご覧ください。インターネットで閲覧できます。パリ協定によると、各国の削減目標は以下のとおりです。アメリカ:2025年までに2005年比で26~28%削減。日本は2026年までに2013年比(13億1700万トン)で26%削減。日本は毎年平均3424万トンづつ削減しなければなりません。2014年は2013年比5000万トン減、2015年は前年比4000万トン減、2016年は前年比1900万トン、2017年は前年比1800万トン。対前年比の削減量が次第に減少傾向にあります。この傾向が続くとパリ協定の約束は空念仏になりそうです。

日本国内で最もCO2を排出する東京都は2013年6548万トン。2014年6212万トン、前年比336万トン減、2015年6048万トン、前年比164万トン減。パリ協定の数値目標に基づくと目標年の排出量は4745万トン、毎年130万トンづつ削減しなければなりません。また、東京都環境基本計画の目標で2030年までに温室効果ガス2000年比30%削減と書かれています。2000年の排出量は5889万トン。東京都の目標年の排出量は4122万トン、毎年59万トンづつ削減しなければなりません。2005年排出量6167万トン、2000年比278万トン増加、2010年5874万トンで2011年比278万トン増加、2013年6548万トンで2011年比440万トン増加と大幅な増加の年があります。確実に削減させる政策を取らなければなりません。

東京都で最もCO2を排出する港区は2013年432.4万トン。パリ協定に基づくと2026年の目標は327.6万トン。削減量105.8万トン、毎年8万トンづつ削減しなければなりません。2014年は前年比13.8万トン削減、2015年は前年比22万トン削減、2016年は前年比15.7万トン削減。良い傾向と思います。一方でオフィスビルやマンションがますます増加傾向にありますのでうっかりするとCO2が再び増加する恐れがあります。しっかりとCO2削減を管理する必要があります。

懐メロ・困難な時耳にした曲・異文化理解不能な最高幹部

懐メロ、個人個人で異なります。感激した曲、元気をもらった曲、何かの時耳にした曲。困難な時勇気をもらった曲。私の場合、小学校、中学校、高校時代に感激した曲がいくつかあります。特に大学時代、留学した際、徹夜でレポート書き(困難な場面で)している時に耳にした曲は忘れられません。50年前アメリカ、オハイオ州The College of Woosterに留学中、アクエリアスというテンポの良い、のりの良い曲、歌詞は覚えていませんが、何度も流れてくる曲なのでメロディを覚えてしまいました。ガールフレンド?が口ずさんでいたガーシュインの「サマータイム」も覚えました。

1971年スウェーデンに留学した際、設計事務所で図面を製作中にラジオからスウェーデンのジャズが聞こえてきました。いくつかメロディを覚えました。曲名は不明ですが。スウェーデンジャズというジャンルを体験しました。

1974年テキサス州ヒューストンのライス大学の建築大学院に留学した際。試験の出来が自信なく、アパートに戻り自信喪失に陥った際「サニー」という曲がラジオから流れてきました。短調でリズム感の良い曲で、気分がめいっている時でしたからサニーの曲でずいぶん元気を取り戻した感覚を得ました。南米からの留学生がいましたので、ラテンソングの定番、べサメムーチョ、キサスキサスなど教えてもらいました。

カラオケはもともと数年に1回程度付き合いで参加する状況ですが、上記の歌が頭をよぎり、上手い下手は別として「義理」で歌います。港区長時代、地域のイベントなどでお付き合いで歌わされました。私の場合、無理して、気取って、外国の歌を歌うのでなく文字通り私の人生に関わった歌として上記の歌の一部を歌いました。すると、最高幹部から「日本の歌を歌え」とお説教。港区は異文化理解を謳いつつ実は異文化理解が全くできな幹部がいました。