カテゴリー別アーカイブ: 教育

東大建築学科、建築歴史教授、藤井恵介先生の退官記念最終講義

2月23日、東大の建築歴史の教授、藤井恵介先生の最終講義に参加しました。私は日本建築研究会で35年伝統建築の勉強を続けております。藤井先生は日本建築研究会の顧問をお願いしております。日本建築研究会の初代顧問稲垣先生の弟子にあたります。

藤井先生は仏教建築史を中心に研究をしてこられました。博士論文は平安時代密教建築史の研究です。さらに、保存・調査分野で多くの寺社、地域の調査をしました。港区内でもいくつかの調査をしていただきました。

藤井先生に日本建築研究会で何度も講義していただきました中でユニークな学説は、中世のお堂が夢見(人生の方針決定の助言をいただく)の場であったという内容です。更級日記や当時の絵巻物から、特に女性達はお堂に泊まり込み、仏像の前で眠り、そこで見る夢を人生の選択肢の判断根拠にしたようです。

藤井先生に感謝、ますます研究活動のご発展をお祈り申し上げます。

 

都市政策の大家、明治大学公共政策大学院学科長、市川宏雄氏の最終講義

学年末は定年退官する教授の最終講義の季節です。2月24日土曜日、明治大学公共政策大学院の学科長、市川宏雄氏の最終講義を聴講しました。私の港区長時代、港区の基本構想審議会会長を務めていただきました。市川さんは日本の都市政策の大家です。

早稲田大学の建築学科を卒業、その後、カナダ政府の奨学金でカナダのウォータールー大学で博士号取得。カナダ、つまりアングロサクソンの社会を体験しました。帰国後、イラクのバクダッドの都市計画に参加、アラブ世界を体験しました。その後、ブラジルの都市計画に参加、ラテン社会を体験しました。その後、中国の海南島の開発を担当しました。東南アジアの社会を体験しました。ということでいくつかの異なる文化圏を体験するという貴重な経験をお持ちです。

そうした多様な文化を基礎とし東京問題を中心に研究を継続、世界の大都市比較研究を中心に都市政策の研究をしてきました。最近では大都市の評価システムを構築、東京が世界の大都市の中で何位かという研究に成果をだしました。

公共政策について、欧米の大学では以前からありましたが、日本で初めて明治大学に公共政策大学院を開設しました。大田区長の松原さん、文京区長の成沢さんなど数人の首長が卒業しています。多くの議員や公務員が学んでいます。そうした仕組みを市川さんが創りました。私自身もこの間兼任講師としてお世話になっております。

市川さんは世界を視野に都市研究の成果を重ね、また、公共政策という新たな研究領域を創設しました。高く評価される業績です。益々研究に磨きをかけていただき、東京を、日本を引っ張て頂きたいと期待しております。

東京都内で大学新設を認めない、愚策です。1980年代の失敗政策を再び?

東京に若者が集中するからと都内に大学の新設を認めない法律が可決されそうです。与党の政策には共感できるものが相当数ありますが、この法律だけは納得できません。1980年代、23区から大学立地を制限した政策がありましたが、失敗に終わりました。失敗政策とまた復活させるのは愚かなことです。東京の大学立地を制限しても若者の気持ちを変えることはできません。地方が魅力ある大学立地、企業立地など大胆な政策を創り、実効すべきです。私が1969年早稲田の交換留学で勉強した大学はオハイオ州の人口2万人のウースター大学でした。私含め世界中から留学生がいました。また、全米から学生が集まっていました。名門大学の一つコーネル大学はニューヨーク州の人口3万人のイサカ市に立地しています。小さな自治体でも世界から留学生を集めるだけの魅力ある大学が多く立地しています。日本の地方都市は、創意工夫が足りず、ただ東京を批判しているだけでしょう。スポーツの世界で早く走るスリートに対し、「他の選手がいい迷惑だから、もっと遅く走ってくれ」とは言いません。東京都に人が集まるから怪しからんと様々精神に対する制約をするのはかつての共産主義国家と同じです。地方が独自にしっかり頑張り、正々堂々都市間競争をすべきです。できないなら、アイデア、知恵が出ないなら、市長、県知事、大学理事長は辞表を出すべきです。

六本木商店街フラッグデザインコンテスト、多様な提案、多様な入賞者

六本木商店街では地域の活性化のため多くの事業をしていますが、商店街の照明灯に飾るフラッグのデザインコンペを毎年実施しています。今年の入賞者の授賞式は新年会の席で実施されました。今年のテーマは「よそおい」。審査員は六本木にご縁のある日本の代表的デザイナーの3人。葛西さん、廣村さん、柴田さん。入賞者の多様性に驚きでした。高校生からプロまで、また、台湾、タイの外国勢も。地方都市では四国から、北海道など遠方からの参加に敬意です。若い方にとり多いな自信となり、また、大いなる実績となると思います。参加者の益々のご活躍をお祈りします。入選作は近々、実際にフラグとして制作し、照明灯に吊り下げられます。六本木を歩く際、ぜひ、お楽しみください。

私事ですが、23歳と24歳と修士課程の学生時代、2年連続で、日本建築学会の設計競技に入賞しました。その時の入賞メダルは現在も弊事務所においてあります。大変な自信となりました。励みとなりました。履歴書に公式に記載できる経歴となりました。また、こうした実績を積み重ねることは大切です。

中学校入試試験問題、解けない???

地下鉄で中学受験予備校Nの広告が目に入りました。2017年桐朋中学校の数学の問題の一部が紹介されていました。説いてみようと問題を読み始めました。途中で諦めました。解決の道筋、方法論が浮かんできません。凄い高度な(と私は思いますが)数学の試験問題を正解し、合格する生徒は天才と思いました。いまどきの小学生(中学受験生)は凄い問題を解く訓練を学んでいると感心させられました。自慢話になりますが、高校時代、数学の順位は一桁。ある程度数学は自信がありましたが。お手上げです。

港区長秘話92、小学校廃校問題その4、教育長から明確な謝罪なし、

平成15年12月議会で与党の議員(一部議員は離脱)の賛成が得られず、賛否同数となりました。S議長が賛成を表明し、結果、廃校条例案は可決されました。その後の庁議(区役所の中で最高の幹部会議、部長級以上は全員出席)で私はI 教育長に、今回の混乱を作ったのはI 教育長の責任だから、「この場で他の幹部にご迷惑をおかけした」と謝罪をするよう促しました。正確な記憶はありませんが、その場で、I 教育長から助役、収入役、部長達に明確な謝罪の言葉はなかったと思います。もちろん区長である私にも謝罪の言葉はありませんでした。恐らく本人からすれば謀がうまくいったということと思います。また、事務担当のU助役も調整に全く動く気配がありませんでした。私は、会派の責任者に個別に説明を続けました。議場での投票で、議案が万が一否決されたら、私は議会解散に打って出ようと腹の中で考えました。

港区長秘話91、小学校廃校その4、元区長S氏登場?

飯倉小学校廃校について、その4です。学校教育行政は教育委員会に権限があります。区長は指揮権はありません。学校の設置や廃校は区長の仕事です。教育委員会が事務的に廃校手続きを進めてきました。しかも相当強引に。小学校の廃校条例は区長の仕事です。その時点でも議会は紛糾していました。廃校条例を上程すれば議会で相当紛糾が予想されます。私の意志と無関係に教育委員会が動き、それに伴い議会も動き始めました。

すると、筆頭部長格のN部長(現在、ふれあい文化財団理事長)が区長室に来て、「議会が紛糾しています(私からすれば教育委員会が勝手にやったことだろうと腹の中で呟いていますが)、元区長のS氏に依頼し、議会対策をやっていただいたほうが良いと思いますが」と発言。私は腹の中で「やっぱり」と思いました。想像ですが、元区長S氏が本件、何らかの形でからんでいたのでしょう。S氏が登場し、S氏の力を再認識させようとの思惑と思いました。」

私は即座に「このような段階で退任した元区長S氏にご依頼するのは失礼だ。」とN部長に告げ、S元区長に調整に入っていただくという提案を却下しました。翌年6月の区長選に向けリーダーシップを取ろうとしたのは見え見えでした。こうした場面で貸を作るのは後で大きな代償を伴います。かねてからS元区長は「俺は区長選出馬にあたり退職金を全てはたいた。」と何度となく発言がありました。私が次の選挙に出馬するなら大きな覚悟をしてろ、というメッセージとも受け取れました。

多様性、留学中の体験、人種、年齢、経歴様々

1969年、20歳、早稲田大学3年生の時、交換留学でアメリカ、オハイオ州にあるウースター大学(学生数1300人、全寮制の大学、立地するウースター市は人口2万人:今後の日本の地方の大学の在り方の参考になります)に留学した時の体験です。日本ですと大学と言えば、およそ18歳から22歳くらいの若者の学生ばかりです。ほとんど日本人です。

ウースター大学は小さな大学ですが、留学生が結構いました。香港、タイ、インドネシア、インド、パキスタン、メキシコ、パナマ、コロンビア、ペルー、ウガンダ、マダガスカル、中央アフリカ、フランスなどです。また、白人が多い大学ですが、黒人学生も一定の割合でいました。こうした留学生と交流し、異文化理解を体験しました。また、白人の学生の中に、若いのに頭髪がない学生、車いすの学生、軍隊で勤務してから入学してきた年齢が上の学生など様々でした。早稲田では学生というと20歳前後と固定観念がありましたが1300人の小規模大学で様々な友人と交流し、文字通り異文化理解しました。

2度目のアメリカ留学はアメリカ政府の奨学金、フルブライト交換留学(私の青春時代の目標でした)でヒューストン市にあるライス大学建築大学院に留学しました。4000人程度の小規模総合大学です。建築大学院は学生数70名、教員数15名、教員と学生の比率は全米でトップです。大学院でも多くの留学生がいました。韓国、レバノン、イスラエル、パレスチナ(名義上はクウェート国籍)、トルコ、南アフリカ、ローデシア、ブラジル、コロンビアなど。女子学生は4割くらい。男性はほとんど兵役経験者。大学院の学生で私が最も若く、最も高齢の学生は50歳くらいの男性1人、孫がいるという50歳くらいの女性が1人、人生やり直し、学び直しで建築の勉強をしていることに驚きました。生涯にわたり勉強することはすばらしいことです。様々な人生、価値観があることを体験しました。

港区は「異文化理解」を標榜しています。実際、私の体験。S元区長やN政策経営部長(その後副区長)などは私を帰国子女のように見ていました。私に違和感を抱いていたようです。現武井区長も言葉では「異文化理解」と発言しますが異文化理解は無理でしょう。学校卒業して以来、区役所生活で他の仕事や生活、他の文化を理解しようとしない、また、理解不要と価値観を抱いていると私は感じました。若い職員らは異文化に対し受容能力はあると思いますが。体験しないと理解不可能です。

港区長秘話90、小学校廃校問題その3

平成15年12月24日、飯倉小学校校長から区長室に電話がありました。「一部PTAや議員が授業中であるにもかかわらず、小学校児童を連れ出し、区長に面会を求めに区役所に向かった」との連絡でした。しばらくして区長室の外でざわざわ声が区長室にまで届きました。私は、授業放棄は法律違反であること、事前の申し入れもなく、突然、大勢で区長に面会を求めるのは強要であり、マナー違反であり、そういう点で子供も教育にもよくないと判断し、面会拒否しました。ここまで事態が推移したことに「I 教育長は一体何をしてきたのか」、「私に手続きは進めています、問題ありませんと報告し続けたこと」に私は i  教育長の無能さ、いい加減さを感じました。別の残念なこともありました。こうした事態に某マスコミは「港区長、小学生に冷たいクリスマスプレゼント」と報道しました。不正確、不適切な内容です。

すべての責任は区長である私にありますが、自らの指示での事なら何でも責任を取る覚悟はありますが、I 教育長、K次長、T庶務課長の事務手続きに問題を感じました。彼らは今何を思っているのでしょうか?

港区長秘話89 小学校の廃校問題その2

港区の小学校の廃校問題についてその2です。平成15年の秋、飯倉小学校の廃校手続きの問題が近隣の区にも漏れるようになったのでしょう。隣の千代田区議(自民系)のO氏が区長室に入ってきました。氏は永田町小学校の元PTA会長、廃校反対で千代田区役所と戦った人物です。氏は「廃校問題は止めておけ」との助言でした。「平成16年6月の区長選を控え、タイミングも悪いし、廃校手続きは慎重にしろ」との助言でした。私も全く同感でした。

以前、I 教育長に「慎重に」と私の気持ちを伝えました。再度、改めて、I 教育長を区長室に呼び、「慎重に」と伝えました。I氏は無表情、ほとんど無反応状態。長年の役人生活から本心を表さないように身についたのでしょう。氏は教育長に就任前は収入役(3役の一人)その前は企画部長。区職員としてはそれなりに頑張ってきたのでしょう。一定の知識、教養は持っていたのでしょう。しかし、I 教育長は自分の意志で大きな課題に立ち向かうような性格ではないと私は見做していました。飯倉小学校の廃校手続きを強引に進めようとするのは、他からの力が働いたのでしょう。ある種の謀略だったのでしょう。

I 教育長はS元区長の時、三役の一つの収入役に抜擢されました。S区長に重用されたのでしょう。私が区長に就任した平成12年6月の3か月後に当時の教育長の任期切れで新教育長人事がありました。私は当時のN教育長を再任し、しばらくしてから別の幹部に教育行政を託そうと考えておりました。しかし当時のN教育長は「任期末で退任したい」と私に意向を伝えてきました。S元区長に意見を求めたところ「U助役は筆頭部長のWを教育長候補として原田区長に推薦するかもしれない。するとW助役就任の可能性が遠のき、U助役はしばらく助役を継続できると考えているかもしれない。I 収入役を教育長にしてはどうか」と助言がありました。ですから、小学校の廃校について、I 教育長の発想、リーダーシップでなくS元区長からの影響が強かったと考えるのが自然です。

I 教育長就任人事は議会承認人事です。事前に与党の各政党の幹部に人事案を説明しました。2,3人の幹部議員から「えー!」と否定、なぜ、ともとれる反応が返ってきました。

ついでに、W政策経営部長の婦人は同じく港区の職員で、W氏は教育長になる気満々だったようです。私と個人的にパイプがあった現場の職員からの話で、奥さんはその頃退職し(三役に就任すると奥さんが部下として同じ職場にいるのは不適切と考えられるのでしょう)ご本人は三役入りするつもりだったのでしょう。また、W氏は現場の職員からの信頼が厚かったようです。人事は様々な要素が絡み合います。