カテゴリー別アーカイブ: 教育

東京都内で大学新設を認めない、愚策です。1980年代の失敗政策を再び?

東京に若者が集中するからと都内に大学の新設を認めない法律が可決されそうです。与党の政策には共感できるものが相当数ありますが、この法律だけは納得できません。1980年代、23区から大学立地を制限した政策がありましたが、失敗に終わりました。失敗政策とまた復活させるのは愚かなことです。東京の大学立地を制限しても若者の気持ちを変えることはできません。地方が魅力ある大学立地、企業立地など大胆な政策を創り、実効すべきです。私が1969年早稲田の交換留学で勉強した大学はオハイオ州の人口2万人のウースター大学でした。私含め世界中から留学生がいました。また、全米から学生が集まっていました。名門大学の一つコーネル大学はニューヨーク州の人口3万人のイサカ市に立地しています。小さな自治体でも世界から留学生を集めるだけの魅力ある大学が多く立地しています。日本の地方都市は、創意工夫が足りず、ただ東京を批判しているだけでしょう。スポーツの世界で早く走るスリートに対し、「他の選手がいい迷惑だから、もっと遅く走ってくれ」とは言いません。東京都に人が集まるから怪しからんと様々精神に対する制約をするのはかつての共産主義国家と同じです。地方が独自にしっかり頑張り、正々堂々都市間競争をすべきです。できないなら、アイデア、知恵が出ないなら、市長、県知事、大学理事長は辞表を出すべきです。

六本木商店街フラッグデザインコンテスト、多様な提案、多様な入賞者

六本木商店街では地域の活性化のため多くの事業をしていますが、商店街の照明灯に飾るフラッグのデザインコンペを毎年実施しています。今年の入賞者の授賞式は新年会の席で実施されました。今年のテーマは「よそおい」。審査員は六本木にご縁のある日本の代表的デザイナーの3人。葛西さん、廣村さん、柴田さん。入賞者の多様性に驚きでした。高校生からプロまで、また、台湾、タイの外国勢も。地方都市では四国から、北海道など遠方からの参加に敬意です。若い方にとり多いな自信となり、また、大いなる実績となると思います。参加者の益々のご活躍をお祈りします。入選作は近々、実際にフラグとして制作し、照明灯に吊り下げられます。六本木を歩く際、ぜひ、お楽しみください。

私事ですが、23歳と24歳と修士課程の学生時代、2年連続で、日本建築学会の設計競技に入賞しました。その時の入賞メダルは現在も弊事務所においてあります。大変な自信となりました。励みとなりました。履歴書に公式に記載できる経歴となりました。また、こうした実績を積み重ねることは大切です。

中学校入試試験問題、解けない???

地下鉄で中学受験予備校Nの広告が目に入りました。2017年桐朋中学校の数学の問題の一部が紹介されていました。説いてみようと問題を読み始めました。途中で諦めました。解決の道筋、方法論が浮かんできません。凄い高度な(と私は思いますが)数学の試験問題を正解し、合格する生徒は天才と思いました。いまどきの小学生(中学受験生)は凄い問題を解く訓練を学んでいると感心させられました。自慢話になりますが、高校時代、数学の順位は一桁。ある程度数学は自信がありましたが。お手上げです。

港区長秘話92、小学校廃校問題その4、教育長から明確な謝罪なし、

平成15年12月議会で与党の議員(一部議員は離脱)の賛成が得られず、賛否同数となりました。S議長が賛成を表明し、結果、廃校条例案は可決されました。その後の庁議(区役所の中で最高の幹部会議、部長級以上は全員出席)で私はI 教育長に、今回の混乱を作ったのはI 教育長の責任だから、「この場で他の幹部にご迷惑をおかけした」と謝罪をするよう促しました。正確な記憶はありませんが、その場で、I 教育長から助役、収入役、部長達に明確な謝罪の言葉はなかったと思います。もちろん区長である私にも謝罪の言葉はありませんでした。恐らく本人からすれば謀がうまくいったということと思います。また、事務担当のU助役も調整に全く動く気配がありませんでした。私は、会派の責任者に個別に説明を続けました。議場での投票で、議案が万が一否決されたら、私は議会解散に打って出ようと腹の中で考えました。

港区長秘話91、小学校廃校その4、元区長S氏登場?

飯倉小学校廃校について、その4です。学校教育行政は教育委員会に権限があります。区長は指揮権はありません。学校の設置や廃校は区長の仕事です。教育委員会が事務的に廃校手続きを進めてきました。しかも相当強引に。小学校の廃校条例は区長の仕事です。その時点でも議会は紛糾していました。廃校条例を上程すれば議会で相当紛糾が予想されます。私の意志と無関係に教育委員会が動き、それに伴い議会も動き始めました。

すると、筆頭部長格のN部長(現在、ふれあい文化財団理事長)が区長室に来て、「議会が紛糾しています(私からすれば教育委員会が勝手にやったことだろうと腹の中で呟いていますが)、元区長のS氏に依頼し、議会対策をやっていただいたほうが良いと思いますが」と発言。私は腹の中で「やっぱり」と思いました。想像ですが、元区長S氏が本件、何らかの形でからんでいたのでしょう。S氏が登場し、S氏の力を再認識させようとの思惑と思いました。」

私は即座に「このような段階で退任した元区長S氏にご依頼するのは失礼だ。」とN部長に告げ、S元区長に調整に入っていただくという提案を却下しました。翌年6月の区長選に向けリーダーシップを取ろうとしたのは見え見えでした。こうした場面で貸を作るのは後で大きな代償を伴います。かねてからS元区長は「俺は区長選出馬にあたり退職金を全てはたいた。」と何度となく発言がありました。私が次の選挙に出馬するなら大きな覚悟をしてろ、というメッセージとも受け取れました。

多様性、留学中の体験、人種、年齢、経歴様々

1969年、20歳、早稲田大学3年生の時、交換留学でアメリカ、オハイオ州にあるウースター大学(学生数1300人、全寮制の大学、立地するウースター市は人口2万人:今後の日本の地方の大学の在り方の参考になります)に留学した時の体験です。日本ですと大学と言えば、およそ18歳から22歳くらいの若者の学生ばかりです。ほとんど日本人です。

ウースター大学は小さな大学ですが、留学生が結構いました。香港、タイ、インドネシア、インド、パキスタン、メキシコ、パナマ、コロンビア、ペルー、ウガンダ、マダガスカル、中央アフリカ、フランスなどです。また、白人が多い大学ですが、黒人学生も一定の割合でいました。こうした留学生と交流し、異文化理解を体験しました。また、白人の学生の中に、若いのに頭髪がない学生、車いすの学生、軍隊で勤務してから入学してきた年齢が上の学生など様々でした。早稲田では学生というと20歳前後と固定観念がありましたが1300人の小規模大学で様々な友人と交流し、文字通り異文化理解しました。

2度目のアメリカ留学はアメリカ政府の奨学金、フルブライト交換留学(私の青春時代の目標でした)でヒューストン市にあるライス大学建築大学院に留学しました。4000人程度の小規模総合大学です。建築大学院は学生数70名、教員数15名、教員と学生の比率は全米でトップです。大学院でも多くの留学生がいました。韓国、レバノン、イスラエル、パレスチナ(名義上はクウェート国籍)、トルコ、南アフリカ、ローデシア、ブラジル、コロンビアなど。女子学生は4割くらい。男性はほとんど兵役経験者。大学院の学生で私が最も若く、最も高齢の学生は50歳くらいの男性1人、孫がいるという50歳くらいの女性が1人、人生やり直し、学び直しで建築の勉強をしていることに驚きました。生涯にわたり勉強することはすばらしいことです。様々な人生、価値観があることを体験しました。

港区は「異文化理解」を標榜しています。実際、私の体験。S元区長やN政策経営部長(その後副区長)などは私を帰国子女のように見ていました。私に違和感を抱いていたようです。現武井区長も言葉では「異文化理解」と発言しますが異文化理解は無理でしょう。学校卒業して以来、区役所生活で他の仕事や生活、他の文化を理解しようとしない、また、理解不要と価値観を抱いていると私は感じました。若い職員らは異文化に対し受容能力はあると思いますが。体験しないと理解不可能です。

港区長秘話90、小学校廃校問題その3

平成15年12月24日、飯倉小学校校長から区長室に電話がありました。「一部PTAや議員が授業中であるにもかかわらず、小学校児童を連れ出し、区長に面会を求めに区役所に向かった」との連絡でした。しばらくして区長室の外でざわざわ声が区長室にまで届きました。私は、授業放棄は法律違反であること、事前の申し入れもなく、突然、大勢で区長に面会を求めるのは強要であり、マナー違反であり、そういう点で子供も教育にもよくないと判断し、面会拒否しました。ここまで事態が推移したことに「I 教育長は一体何をしてきたのか」、「私に手続きは進めています、問題ありませんと報告し続けたこと」に私は i  教育長の無能さ、いい加減さを感じました。別の残念なこともありました。こうした事態に某マスコミは「港区長、小学生に冷たいクリスマスプレゼント」と報道しました。不正確、不適切な内容です。

すべての責任は区長である私にありますが、自らの指示での事なら何でも責任を取る覚悟はありますが、I 教育長、K次長、T庶務課長の事務手続きに問題を感じました。彼らは今何を思っているのでしょうか?

港区長秘話89 小学校の廃校問題その2

港区の小学校の廃校問題についてその2です。平成15年の秋、飯倉小学校の廃校手続きの問題が近隣の区にも漏れるようになったのでしょう。隣の千代田区議(自民系)のO氏が区長室に入ってきました。氏は永田町小学校の元PTA会長、廃校反対で千代田区役所と戦った人物です。氏は「廃校問題は止めておけ」との助言でした。「平成16年6月の区長選を控え、タイミングも悪いし、廃校手続きは慎重にしろ」との助言でした。私も全く同感でした。

以前、I 教育長に「慎重に」と私の気持ちを伝えました。再度、改めて、I 教育長を区長室に呼び、「慎重に」と伝えました。I氏は無表情、ほとんど無反応状態。長年の役人生活から本心を表さないように身についたのでしょう。氏は教育長に就任前は収入役(3役の一人)その前は企画部長。区職員としてはそれなりに頑張ってきたのでしょう。一定の知識、教養は持っていたのでしょう。しかし、I 教育長は自分の意志で大きな課題に立ち向かうような性格ではないと私は見做していました。飯倉小学校の廃校手続きを強引に進めようとするのは、他からの力が働いたのでしょう。ある種の謀略だったのでしょう。

I 教育長はS元区長の時、三役の一つの収入役に抜擢されました。S区長に重用されたのでしょう。私が区長に就任した平成12年6月の3か月後に当時の教育長の任期切れで新教育長人事がありました。私は当時のN教育長を再任し、しばらくしてから別の幹部に教育行政を託そうと考えておりました。しかし当時のN教育長は「任期末で退任したい」と私に意向を伝えてきました。S元区長に意見を求めたところ「U助役は筆頭部長のWを教育長候補として原田区長に推薦するかもしれない。するとW助役就任の可能性が遠のき、U助役はしばらく助役を継続できると考えているかもしれない。I 収入役を教育長にしてはどうか」と助言がありました。ですから、小学校の廃校について、I 教育長の発想、リーダーシップでなくS元区長からの影響が強かったと考えるのが自然です。

I 教育長就任人事は議会承認人事です。事前に与党の各政党の幹部に人事案を説明しました。2,3人の幹部議員から「えー!」と否定、なぜ、ともとれる反応が返ってきました。

ついでに、W政策経営部長の婦人は同じく港区の職員で、W氏は教育長になる気満々だったようです。私と個人的にパイプがあった現場の職員からの話で、奥さんはその頃退職し(三役に就任すると奥さんが部下として同じ職場にいるのは不適切と考えられるのでしょう)ご本人は三役入りするつもりだったのでしょう。また、W氏は現場の職員からの信頼が厚かったようです。人事は様々な要素が絡み合います。

港区の小学校の廃校手続きの問題

平成15年の夏過ぎ(区長の任期16年6月の1年前)に教育長から飯倉小学校の廃校を進めると報告がありました。「私は慎重にしろ」と伝えました。法律上、教育委員会は独立した組織で、区長は教育委員会に命令を出せません。

不自然な時期でした。政治の常識からすれば、国政でも地方政治でも、選挙近くなると政治問題は避けます。ですからなぜこの時期に政治問題をあえて取り上げるのか、不思議でした。ある勢力から「原田に政治問題を吹っ掛け、嫌がらせ、いじめてやろう」という意図があったのでしょう。

港区では児童数が100名を割ると統廃合を検討するという決まりがあります。対象となった小学校は児童数30名、教職員集42名です。とっくに検討が始まってしかるべきですが、これまで教育長、元区長S氏は手を付けませんでした。重大な政治問題と認識があったから手を付けたくなかったのでしょう。行革の観点からすれば、港区の小学校児童一人あたりの経費は年間80万円、飯倉小学校の経費は一人当たり400万円、大学医学部並みの経費です。他校のPTAなどからはうらやましがられたり、無駄という批判があるでしょう。

教育委員会は強引に廃校を進めました。予想通り多くの混乱が生じました。教育長等は区長室に来て「問題ありません。進めます」という報告をしました。太平洋戦争の時、軍部が天皇陛下や国民に「連戦連勝です、問題ありません」とデタラメな報告をしていた無責任軍最高幹部と全く同じでした。

教育員会の暴走を止められなかったことに忸怩たる思いがあります。一方である勢力が教育委員会に圧力をかけ、この際原田に恥をかかせよう、責任をとらせようという意思が働いたと感じました。教育長等教育員会幹部は混乱に対し、責任を取らず、また、区長に「ご迷惑をおかけしました」との挨拶の言葉もありませんでした。その程度のレベルの人間と評価しました。

その他感じたこと。普段、行政の無駄を省けと声高に発言する会派の議員が3名いましたが、児童1人当たりの経費400万円(一般の小学校の5倍の経費)掛かる学校の経費には何ら触れず、廃校に反対するという立場でした。口で無駄遣いをなくせと発言しつつ、実際の行動は過大支出を容認する立場でした。二枚舌の典型例と言えます。

その他、議員には出勤日に交通費が6000円支払われます。バスなら自宅と議会の往復で400円、後の5600円は自分の懐に入ります。無駄をなくせと主張するならそうした交通費は余った分は議会事務局に返金すべきでしょう。残った5400円は赤ちょうちん代に消えたのでしょう。

マスコミも普段行政の無駄をなくせなどキャンペーンを張りますが、こうした問題が生じると面白がって意図的に編集し(廃校する区長は悪代官みたいに)放送を流しました。トランプ大統領が偽新聞、偽テレビを厳しく批判をしていますが、当時の私の心境は一部マスコミは真実を適切に伝えないと実感しました。

様々勉強させていただきました。

筑波大学S教授の博士論文、本当の執筆者はH君

40年前、建設省の建築研究所に少しの期間アルバイトをしました。そこで見聞きしたことで強く問題を感じたことがありました。建築研究所の部長S氏と私の友人H君が連名で都市計画学会に学術論文を提出、審査で合格、学会誌に掲載されました。実質の作業はH君がすべてやりました。S部長は単にコメントするだけでした。当時の私のレベルからすればH君の学会論文が掲載されたことは凄いことと思いました。しばらくしたらS部長は審査合格し掲載された学会論文をまとめ東京大学に提出、博士号を取得、筑波大学教授に就任、転職しました。自ら作業をせず、他人にすべてさせて成果を全て自分のものにするやり方はずるいと思いました。

私も学会審査付き論文を書き、博士論文にまとめ上げた体験からすると、アイデアは基本的に私自身が作成し、適宜、若手教授たちから助言をいただきました。作業はほとんど自ら担当しました。私の博士論文を審査いただいた当時の横浜国立大学教授小林重敬先生によると、審査の根本的基準①アイデアが本人のものであること、②データ収集が本人がしたもの、③分析作業が本人によるもの、が内容の審査に入る前の重要な確認事項だと説明を受けました。当然、私の博士論文は全て私の創作物であり、私の作業(若干の手伝いはしてもらいましたが)です。

建築研究所部長、その後、筑波大学S教授の博士論文はその人物の論文ではありません。アルバイトの搾取です。40年前はそのような無法が著名大学で許されたのでしょう。

私は一匹狼(本当はヒツジ)ですが、22歳から現在まで500本の論文、小論を書きました。内、審査付き論文は9本書きました。全て自分のアイデア、自腹です。大学教授は学生に授業料を払わせ、卒論指導という名目で学生にデータを集めさせ、卒論を書かせ、その先頭に教授の名前を掲載している方が多いですが、許し難い行為です。欧米には学生を教授の研究活動に利用する仕組みはありません。欧米でそうしたことをしたら裁判で大学教授と学長は授業料返還を求めまた、搾取されたと訴えられます。