月別アーカイブ: 2014年12月

東京2030年の戦略

民間研究機関の研究活動に関係し、東京の2030年のグランドデザインを描き、そのための戦略を作りました。東京を防災上安全な街に、高齢者が生き生きした街に、そのため、観光、留学生の招へい、医療サービスなど、サービス産業で富を築くという発想です。着眼点は、東京都庁の役人にはない発想です。

都営住宅に目を付けました。23区内にある都営住宅は16万6千戸あります。そのうち11万5千戸(70%)が新耐震以前(1981年)建設の住宅です。大震災が発生したら大破は免れない危ない状態です。その敷地面積合計は660ヘクタール。(これは皇居の3倍、港区の1/3)です。

東京を取り巻く課題の1つは空き家問題。90万戸あります。(新潟県の住宅と同数です)都営住宅を建て替えせず(多額の費用が掛かります)、使える空き家を、都営住宅や必要とされる公共施設(保育や高齢者施設など)として借り上げることが考えられます。

急速な高齢化の課題があります。元気な75歳以上の高齢者は150万人(京都市の人口と同じ)と推計されます。こうした高齢者が生き生き活動できる施設、空間が必要です。

東京の環状6号線から7号線の地域は老朽、木造が密集した地域があります。防災強化のため、そうした危険な地域に住んでいる方々の受け皿が必要です。受け皿を供給できます。

新耐震以前の都営団地を民活など利用し、これから必要とされる施設建設、留学生の施設、医療施設、観光推進の宿泊施設などに建て替え、また、全体敷地の1/3の220ヘクタールを公演、緑地にします。完成の見込みのない都市計画公園をそこに移すということも考えられます。

留学生が20万人東京で生活すると、1年間250万円授業料、生活費とすると、東京に5000億円が落ちます。また、観光客が1000万人東京に来訪し、1人20万円消費すると東京に2兆円が落ちます。中東の王族が心臓手術で東京に来ると、いくらか?わかりませんが、相当なお金が東京に落ちます。

一石二鳥でなく、一石6鳥、7鳥の戦略です。

港区長時代、財政難で、学校の跡地を民活で障がい者と高齢者の施設(41億円)を作りました。また、民活で区営住宅を作りました。そうした手法は参考になります。

区長秘話その10、就任に際し、「命、区民に預けた」

行政、政治、大規模組織運営の経験がありません。突然区長を頼まれました。職員、議員は「お手並み拝見」「新米だからいじめてやろう」など手ぐすね引いて待ち構えていると思いました。

噂で、官製談合の不正や開発利権を耳にしていました。区長職を進めるに、躊躇したり、身を引いたら終わりです。強い気持ちで前に出ないといけません。スポーツでも一瞬たりとも身を引いたら負けです。(剣道の昇段試験で下がったら不合格と聞きました)前に出ることだけ考えました。

強い気持ちで、「私の命を区民に預けた。原田敬美は死んだ。何も存在しない。ただひたすら区民の利益のために仕事をする」との覚悟をしました。気持ちがスッキリしました。強い気持ちですから、嫌味を言いながらプレッシャーをかけてくるベテランの区議も、世間で有名な方とも、一歩もひるまず仕事ができました。

政治でも、企業でも、あちらこちらでペコペコするリーダーはダメです。

築地市場の再開発を考える

某団体から依頼され築地市場の再開発について講演を依頼されました。東京の市場ですから、世界の大都市の中央市場を参考にすべきです。ニューヨーク、マンハッタン島、イーストリバーに面しているフルトン市場の再開発、ロンドンの中心部ウェストミンスター区にあるコベントガーデン市場、パリの中心から5キロ北にあるラ・ヴィレット市場の再開発です。

フルトン市場は、機能が東側にブルックリン区に移転し、従前の建物を再利用し、ウォーターフロントに配慮し、新しいショッピングセンターに生まれ変わりました。金融街ウォール街から近いこともあり、また、様々な地下鉄路線の交差点で、市役所は最近1400億円かけフルトン駅の再開発もしました。

ロンドンのコベントガーデンは、隣接にロイヤルオペラハウスもあり、商業を中心とした施設の再利用です。

パリのラビレットは市場の建築は展示場として使われ、周囲はパリ音楽院、科学博物館などの新しい施設ができました。

全てが世界的な観光の拠点になっています。築地の立地条件を勘案し、世界の大都市の市場と並び立つ施設に再開発を検討していただきたいと思います。

区長秘話その9プレゼントにNO

区長に就任したのが6月28日。お中元の時期です。面識のない企業などから多くのお中元が届けられました。すべて返送しました。中には、ビンの商品もありました。壊れるといけないので、妻に頼みタクシーで返しに行ってもらいました。生物は返送できないので、また、妻に頼みデパートで価格を調べ、その額の現金を持参し、お渡ししました。すべて返送しましたので、12月のお歳暮は一切来なくなりました。これでよいのです。私の意志は関係者に明確に伝わりました。プレゼントをもらって喜ぶような卑しい政治家、指導者になってはいけません。

ノーベル賞ニュースでの気づき、

12月10日新聞報道はノーベル賞一色。日本人として嬉しい限りです。報道で原田流の解説です。晩餐会がストックホルム市庁舎で開催されました。日本の市役所の設計ではありえません。欧米の市役所は、国際的な行事をする場所であり、市役所の機能が異なります。1300人の晩餐会です。市民のシンボル施設です。今後、日本でも市庁舎の役割、設計の方法を見直す必要があります。

また、平和賞の受賞式はノルウェイのオスロ市庁舎で開催されました。入り口には、警備の警察官が機関銃の引き金に指を当て警備の映像です。警備の考え方も異なります。

市長も、そうした式典にふさわしい教養、人格、経験をお持ちの方が務めるのでしょう。

ノーベル賞のニュース映像、写真を様々な観点から見ると面白いです。

区長秘話その8

平成12年6月11日(日)多くの方のご支援で当選。感謝。就任日は6月28日。その間、S区長と2度、氏の親類が経営する料理屋の個室で会合を持ちました。

驚いたのは、病気引退と退任理由でしたが、氏は突然たばこを吸い始め、また、酒をがぶがぶ飲み始めました。引退の理由は、脳梗塞、心臓病とのことでしたが、嘘だ。本当の引退理由は、金か女か?

2つ質問しました。幹部職員の評価と議会での野党対策です。そっけなく自分で考えろ、でした。後継者として無理やり頼まれ、躊躇しながらの立候補でありましたが。行政、政治経験も全くないので、氏から丁寧な助言が欲しかったのですが。

食事が終わるとS氏はさっさと席を立ち退室した。残った私が2人分の料金を払いました。2度とも。丁寧に助言をくれるタイプではなさそう。自分で考えるしかないと判断。後年、氏の回顧談の出版物で「原田は名誉心が強い」と書かれていたのは驚きました。どうしてもと後継者にと頼まれ、私からすれば、引き受けてあげたのに、という思いです。全くのウソです。私は名誉心から最も遠い人間です。

自分で考えろと言われ、自分流でやろうと決断しました。その段階で、だまされた気持ちでした。強い意志で区長職を務めようと。宗教に関心はありませんが、たとえて言うと、ぼろをまとって修行する禅の僧侶のような気持ち、人類の現罪を背負い十字架を背負ったキリストの気持ち?で、区民のために汗を流すぞと意識しました。23区区長会で、皆さん高給なスーツにカフスボタン。私は最も安いスーツに、カフスボタンをせず、4年間を通しました。外見で仕事をしません。中身です。ガラの悪いベテラン議員Y氏は「原田はろくな服を着てねー!」と悪口。大いに結構と思いました。私を批判するに、服のことくらいしかありませんでした。後は私を批判するようなネタがないということです。この程度の下品な議員を、幹部職員は「先生、先生」とぺこぺこ。地方政治の現実の一コマです。

建築家菊竹清訓についてのシンポジウム

平成26年11月30日、早稲田大学大隈講堂で建築家菊竹清訓氏の心というテーマでシンポジウムが開催されました。菊竹氏は私の実務上の恩師です。いつも刺激を下さった方です。文化庁主催、早稲田大学が後援です。10月28日から2月1日まで、湯島にある国立近現代建築資料館で菊竹清訓展が開催されています。私は実行委員会の末席をけがしております。シンポジウムのパネラーを務めました。菊竹先生を語るにはもっとふさわしい方がいますが、おそらく、弟子の中で風変わりな経歴ということで出演の指示があったと思います。

47年前早稲田大学1年生の11月、設計課題でスカイハウス(菊竹自邸)の模型を作りました。バルサとセメダインでです。他の模型は全て壊し捨てましたが、スカイハウスの模型だけは大切に保存していました。スカイいハウスの模型は私にとり重要文化財で、菊竹先生の遺影、位牌と同じで、菊竹先生の声が聞こえます。

日本書紀に、天照大命の長男がアメノオシホミミの命、現在の天皇家です、次男がアメノホヒの命で現在の出雲大社の宮司、千家家です。菊竹先生は昭和38年出雲大社の庁の舎の設計をし、日本建築学会賞はじめ有力な賞を受賞しました。後年、菊竹先生の一番弟子の内井さんが現天皇陛下の住まいを設計しました。菊竹先生と菊竹スクールは在野にあって日本書紀に出てくる家柄の住まいを設計したという素晴らしい業績をお持ちです。日本書紀の最後に、補遺で、この点を記述したいです。

留学から戻り27歳の時に菊竹先生の事務所でご厄介になりました。密集地域の改良住宅の計画を担当、先生から「マクロ、ミクロ」とキーワードを支持されました。合意できるところで合意する、(マクロ)、小さな課題解決を積み上げる(ミクロ)です。今日の合意形成につながるアイデアです。

78年8月筑波センタービルのコンペの担当を指示されました。朝の打ち合わせで「夕方まで10案作りなさい」と指示され驚きました。また、議論で「現代建築に問われる課題は何か」と聞かれ、答えに窮しました。

その年、秋に地方都市で国鉄の遊休地に教育施設を作るプロジェクトで、私は東京に戻りゆっくり考えようとしたら、菊竹先生は新幹線の中で「すぐ1案作りなさい」と指示、隣からアドバイスいただき30分くらいで1案を作りました。「ほらできたでしょう」と。「ちょっとビールでも飲みなさい」と車内販売のビールを買ってくださいました。乾杯のビールでないですが「とりあえずビール」でなく「とりあえず1案」です。

1964年の京都国際会議場のコンペで、菊竹先生はエレベーターが会議の場所であるとコンセプトを出しました。当時の審査員は理解できませんでした。私は港区長を務め、エレベーターや廊下が実質上のひそひそ話の重要な会議空間であると実感しました。当時国際会議の実績が少ない日本で、良くこのような発想が生まれたと驚嘆です。

また、港区内に2階建ての木造住宅だらけの昭和30年頃、超高層ビルで300メートルの高層図を作成しました。今になると当たりまえの高さですが。鋭い直観力です。

勘所が優れている建築家です。プロフェッショナリズムに徹した建築家です。

海外の会議でもご一緒しました。日本の建築士制度のPRをしました。構造も設備もわかるのが日本の建築士だと。また、日本の建設会社の技術力の高さをPRしていました。外国人建築家が日本でよい仕事ができるのは日本の建設会社の技術力がその根底になると。建築士会、建設業界は菊竹先生を顕彰しなければなりません。もっともっと菊竹先生について語りたいと思います。

 

区長秘話その7

平成12年6月の区長選のポスターの写真撮影は、地元選出で官房副長官だった与謝野馨氏が、公務ご多忙の中、ご自身の事務所にあるスタジオで撮影してくださった。自民党区議団幹事長のS氏(選対事務長)がご案内下さった。私の妻と親戚の美容師が同道し、写真撮影前に化粧、ヘアスタイルを整えてくれた。与謝野氏と雑談しながら自然の笑顔が出るまでシャッターを切る。自然の笑顔がなかなか作れません。36枚のスライドフィルムを13本くらい使いました。与謝野氏が現像し、いくつかよさそうなフィルムにマークしてくださり、「後は原田さんが選んでください」とのことで、自分でベストショットを選びポスター写真としました。S氏は化粧したことで、すでに偽りが始まった、と冗談ぽく語りました。

フィルム13本撮って下さったので、フィルム代のことが心配になり、秘書の方に電話をし「フィルム代をお支払いしたいのですが」と申し入れると、ベテランの秘書の方が「原田さんは自分のことだけ心配してなさい」と言われました。

与謝野馨氏から、「区長選挙の後、衆議院議員選挙があり、自分は港区内19か所周りミニ集会で挨拶をすることになっています。そこに一緒についてらっしゃい、原田さんを紹介しますから。僕のことは一切心配いりません。原田さんはご自分のことだけ心配してなさい。」と言われ、同道しました。政治集会に出るのは初めてですが、短い時間で要領よく自分の政治信条を語る姿は誠実そのもの。与謝野氏は笑顔をださず、いつもポーカーフェイス。

与謝野馨氏のライバルの海江田万里氏からも応援を受けました。氏が開催する集会で、区長選出馬の挨拶をしました。海江田氏は大きな体を曲げ挨拶し、また、笑顔で、パーフォーマンス十分。対比的です。

応援くださる方がライバル同士というのは、私にとりつらいものがありました。さらに、支援を受けた公明党、社民党の幹部の皆様からも挨拶の機会をいただきました。