平成26年11月30日、早稲田大学大隈講堂で建築家菊竹清訓氏の心というテーマでシンポジウムが開催されました。菊竹氏は私の実務上の恩師です。いつも刺激を下さった方です。文化庁主催、早稲田大学が後援です。10月28日から2月1日まで、湯島にある国立近現代建築資料館で菊竹清訓展が開催されています。私は実行委員会の末席をけがしております。シンポジウムのパネラーを務めました。菊竹先生を語るにはもっとふさわしい方がいますが、おそらく、弟子の中で風変わりな経歴ということで出演の指示があったと思います。
47年前早稲田大学1年生の11月、設計課題でスカイハウス(菊竹自邸)の模型を作りました。バルサとセメダインでです。他の模型は全て壊し捨てましたが、スカイハウスの模型だけは大切に保存していました。スカイいハウスの模型は私にとり重要文化財で、菊竹先生の遺影、位牌と同じで、菊竹先生の声が聞こえます。
日本書紀に、天照大命の長男がアメノオシホミミの命、現在の天皇家です、次男がアメノホヒの命で現在の出雲大社の宮司、千家家です。菊竹先生は昭和38年出雲大社の庁の舎の設計をし、日本建築学会賞はじめ有力な賞を受賞しました。後年、菊竹先生の一番弟子の内井さんが現天皇陛下の住まいを設計しました。菊竹先生と菊竹スクールは在野にあって日本書紀に出てくる家柄の住まいを設計したという素晴らしい業績をお持ちです。日本書紀の最後に、補遺で、この点を記述したいです。
留学から戻り27歳の時に菊竹先生の事務所でご厄介になりました。密集地域の改良住宅の計画を担当、先生から「マクロ、ミクロ」とキーワードを支持されました。合意できるところで合意する、(マクロ)、小さな課題解決を積み上げる(ミクロ)です。今日の合意形成につながるアイデアです。
78年8月筑波センタービルのコンペの担当を指示されました。朝の打ち合わせで「夕方まで10案作りなさい」と指示され驚きました。また、議論で「現代建築に問われる課題は何か」と聞かれ、答えに窮しました。
その年、秋に地方都市で国鉄の遊休地に教育施設を作るプロジェクトで、私は東京に戻りゆっくり考えようとしたら、菊竹先生は新幹線の中で「すぐ1案作りなさい」と指示、隣からアドバイスいただき30分くらいで1案を作りました。「ほらできたでしょう」と。「ちょっとビールでも飲みなさい」と車内販売のビールを買ってくださいました。乾杯のビールでないですが「とりあえずビール」でなく「とりあえず1案」です。
1964年の京都国際会議場のコンペで、菊竹先生はエレベーターが会議の場所であるとコンセプトを出しました。当時の審査員は理解できませんでした。私は港区長を務め、エレベーターや廊下が実質上のひそひそ話の重要な会議空間であると実感しました。当時国際会議の実績が少ない日本で、良くこのような発想が生まれたと驚嘆です。
また、港区内に2階建ての木造住宅だらけの昭和30年頃、超高層ビルで300メートルの高層図を作成しました。今になると当たりまえの高さですが。鋭い直観力です。
勘所が優れている建築家です。プロフェッショナリズムに徹した建築家です。
海外の会議でもご一緒しました。日本の建築士制度のPRをしました。構造も設備もわかるのが日本の建築士だと。また、日本の建設会社の技術力の高さをPRしていました。外国人建築家が日本でよい仕事ができるのは日本の建設会社の技術力がその根底になると。建築士会、建設業界は菊竹先生を顕彰しなければなりません。もっともっと菊竹先生について語りたいと思います。