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建築家菊竹清訓氏の元所員による体験談書物「菊竹学校」出版

1月23日「菊竹学校」という本が建築画報社から出版されました。かつて菊竹建築事務所で勤務していた方々が菊竹先生を偲ぶという形で思い出話を書いたものです。狂気の建築(ユニークなフォルムと設計のプロセスが独特という意味で)とも称された氏の設計プロセスなど、OB、OGが執筆しました。一人一人の原稿が人生教訓のような内容です。ぜひお読みください。私も一文を寄稿させていただきました。私の人生の重要な恩人の一人です。

区長秘話その14 港区幹部の国際化対応の意識

港区は大使館が70以上あります。外国人区民は1割います。職員の国際化の意識を高めたいとおもいました。旧知の東京財団の専務が区長室に来訪しました。元フルブライト委員会(日米教育員会)職員です。財団の費用で自治体職員を夏休みの期間オレゴン大学のサマースクールに派遣し公共政策を勉強するという内容です。原田さんは国際派だから是非職員に留学試験に応募させてほしいとの要請でした。このようなありがたい機会は貴重と思い、すぐ助役に指示し、職員にPRし、手を挙げさせるようにと命じました。ところが応募者ゼロ。助役がPRをしなかったのか、また、職員がそういう意識がないのか?区長退任後、たまたま東京財団の審査員を頼まれました。某区は5人も応募がありました。また、北海道や九州などの地方の町役場の職員の応募が多くありました。国際都市港区と言われながら、短期でもアメリカで公共政策を学ぼうという意欲ある職員がいないというのが情けないです。オレゴン大学での日本の自治体職員向け授業は通訳付きと恵まれた内容ですが。英語を話す幹部職員はゼロ。情けないです。国際理解はできません。区民の1割を占める外国人が区の歳入の2割の税金を納めています。残念ながら外国人向けのサービスレベルは低いのが実情です。

区長秘話その15 16時の男

区長就任後、16時になると区長室に来るベテラン議員Y氏がいました。最初の頃は、世間話しにでも寄ったかと思いました。しかし、毎日来ます。話題がいつも、前の区長選挙は俺が仕切った、その前の区長選挙も俺が仕切った、その前の区長選挙も俺が仕切ったと同じ話題ばかり。次第に、また、自慢話、ほら話かと感じるようになりました。特に、忙しく書類をチェックしているときは迷惑そのものです。

周辺に事情を聴くと、前の区長の時は16時になると区長室に来て区長室の裏の倉庫に置いてあるサッポロビールで酒盛りをし(その議員はサッポロビールしか飲まないのでその議員のために買いためたものでしょう)、おそらく世間話、人事の話、議会の話などしていたのでしょう。問題はその後のことです。関係者の話では、そのベテラン議員、区長室でべろんべろんに酔っ払い、職員が抱きかかえ、区長専用車に乗せ、自宅まで送り届け、それから区長が会合に出たり、銀座に繰り出したりのようでした。

真面目な職員にとり、そのような酔っ払い議員との世間話の際にあの課長はいい、この課長はダメなど人事が決まったらたまったものでないでしょう。また、区長専用車の不適切使用になります。

私はビールも出さず、書類のチェックで忙しいので、とお伝えしたら、その議員はもう来なくなりました。その代り、助役室で世間話をしていたようです。頻繁に区長秘書室で陣取り、情報収集(諜報活動)をしていました。区長の行動、だれが面会に来たか、だれと会っているかなどです。後見人気取りでした。課長に命じ、秘書室にあるその議員のために用意したみたいな椅子をどかすようにしました。また、予定表など隠せと命じました。このような振る舞いが区長室、秘書室でありました。他の自治体ではどうでしょうか?

アメリカの郊外型大型ショッピングセンターの閉鎖、増加傾向

私が初めてアメリカに留学したのが20歳の1969年。大学が始まる前にホームステイした友人が、車で高速道路を使い郊外の大型ショッピングセンターに私を連れてゆきました。その巨大さ、あふれんばかりの商品、建築のきれいさに圧倒されました。1974年、2度目のアメリカ留学(ライス大学建築大学院)で、郊外型ショッピングセンターが設計課題でした。両サイドに大型デパートや映画館、それをつなぐ幅20メートル、長さ1キロメートルのショッピングモールが設計のポイントでした。日本にまだ事例がないので、雲をつかむような内容の設計課題でした。

帰国後、日本でも郊外型のショッピングセンターが増え、もともとあった駅前の中心市街地の商店街はすたれてゆきました。今でも、その傾向は続いています。

先日ニューヨークタイムズを読み驚きました。アメリカの郊外型ショッピングセンターで空き店舗が増えどんどん閉鎖されているとのことです。いずれ、日本でもと心配しました。ショッピングセンターで40%以上の小売店舗が空き家状態のショッピングセンターは20%もあるとのことです。

 

区長秘話その13 元区長の就職斡旋

私を担ぎ出した元区長は退任時62歳、病気引退という理由でしたが、お元気そのもの。現役の区長の役目として元区長の就職を探さねばなりません。当時区長会会長でした中央区長を訪問、何か適当なポストがあればよろしくと頭を下げ、お願いしました。区長会の常務理事から連絡があり、23区合同運営の某福祉団体の理事長のポストがあるとのことで、お願いしました。条件は週1回勤務し、月43万円です。単に、区長経験したからということでなく、本来の能力があれば問題ありませんが、もし、単に区長でしただけで、文書作成能力もない、管理能力もない人物が就任するとしたら問題です。世間の相場観から見て高給過ぎます。区長会のポストも、行革や監査の対象とすべきと思いました。

区長秘話その12 実践したこと

区長就任後に実施したことで特筆したいことです。

まず、国旗について。区長室に国旗がありませんでした。世界中どこの国を訪問しても、市長室、社長室などどこにも国旗が掲揚されています。私は、銀座の伊東屋で国旗を自腹で買い、デスクに置きました。

震災訓練での自衛官の立会。6月28日就任後、間もなく9月1日の震災訓練でした。訓練のための訓練ではよくない、より実践的な内容にすべきと指示、その一つに、自衛官の立会を要請しました。共産党から反対の声が出ましたが、万が一が生じた場合、自衛隊に一番先に救援に来ていただく必要があります。練馬駐屯地の情報将校2人に訓練を立ち会っていただきました。その後、自衛隊の立会、参加は定常的になり、また、区民祭りでも自衛隊のコーナーを用意、参加をいただきました。現在も続いています。ちょっとした改善にも必ず抵抗があります。

警察官の採用です。防犯、危機管理を区役所(行政)が正面から担うべきと判断、就任2年後の平成14年、警視庁から幹部を課長級に迎えました。事前に警視庁幹部と相談しました。これはおそらく全国でも最初の取り組みです。今では多くの区・市で危機管理、防犯担当で警察官を採用しています。私が、最初に検討を指示した時、助役はポカーンとして指示内容を理解できませんでした。驚いた様子でした。与党の議員も驚きました。最初に派遣された警察官S氏は期待に応え、生活安全条例の策定、学校での非常警報装置の設置、街頭の防犯カメラ設置、建築確認申請時の防犯の視点からの警察署での事前協議など、積極的に仕事をしてくれました。氏が関連分野の基礎を作ってくれました。区役所で職員から信頼を得、人気者でした。

公正な契約制度の構築。残念ながら、港区に官製談合がありました。早速メスを入れ、契約制度を公正なものに改善しました。相当反発がありました。やり通しました。また、開発に伴う様々な悪い噂話を耳にしました。問題が生じないよう私自ら監視の目を向けました。

こうした内容は、本当の実績と言えるかもしれません。誰もが手を出さない、また、出したがらない分野です。やるべきことをしたので気持ちの面で強い立場でいられます。

東京港、中央防波堤埋立地の帰属問題、テレビ朝日に出演

平成26年1月10日(土)朝6時から8時までの「ニュースなぜ太郎」にコメンテーターで出演しました。中央防波堤埋立地の帰属問題(大田区と江東区の争い)についてです。実は1年前にTBSの番組でもコメンテータを依頼されました。

まず、問題の経緯について説明しました。区長時代の平成13年、区長会の席上当時の江東区長が、「東京都が埋立地に管理施設を建設するに当たり、建築の確認審査を江東区で担当してほしいと依頼があったが、江東区に帰属すると明言してくれないと建築の審査をしない」と発言。建築の審査を人質にした領土の要求でした。建築審査と帰属問題は別物であるという意見が数人の区長から出ました。私も発言しました。港区の芝浦の漁師は、昭和30年代まで、芝浦沖で漁をしていました。そうした観点から港区も領有権を主張すると区長として決断しました。続き、品川区長も、中央区長も一部領有権を主張し始め、5区が領有権を主張しました。しかし、トンネルと橋梁で、埋立地は、江東区と大田区と直結したことで、3区は主張を取り下げました。

埋立地の面積は約500ヘクタール。千代田、中央区の半分の面積です。広大です。世界の大都市で、ウォーターフロント空間は一等地です。たとえて言えば第2のお台場です。お台場は50ヘクタール。住宅、商業、業務、アミューズ機能など複合開発です。約2000世帯、5000人が住んでいます。世界的に魅力ある都市開発が可能な魅力ある土地です。地元区長が開発、都市計画の実質の権限を持っています。その結果、区に住民税、消費税(の一部還付)、東京都からの交付金などの多額の歳入が期待されます。

両区の主張も合理的です。それを政治的に解決するのが政治の仕事です。問題の先送りをしてはいけません。世界の大都市のウォーターフロント開発の事例を参考に、区が、東京が、日本が発展する開発計画を実現し、世界から注目される年にしなければなりません。

区長秘話その11、負の遺産の解決

平成12年6月から16年6月までの区長時代、多くの仲間のおかげで重要な施策を実績を実現できました。負の遺産の解決も大きな実績です。3つあります。1つは財政再建です。就任時、貯金は400億円、借金は600億円、4年間に、貯金を800億円に増やし、借金を400億円に減らしました。就任時、平成12年の予算で、歳入の16.2%は区債で賄いました。23区平均の区債の比率は14.6%、当時、財政事情が悪いと言われた中野区は21.3%、豊島区は19.8%、墨田区は15.8%でした。都心区の千代田区、中央区は、区債の比率は4%、4.6%でした。当時、港区の財政がいかに借金に頼っていたか、よくわかります。

2つ目は某有名企業が所有する芝公園と港区が所有する浜松町駅前の土地の交換です。20年来の課題と説明を受けました。それまでの3人の区長が、問題解決に躊躇していた案件です。私は区長就任後、直ちに社長に面会に行き、すぐ解決に向けて協議しましょうと申し入れしました。トップ同士で話し合い、解決しましょうと提案しました。部課長レベルに任せたり、口利きをしたがる議員には介入させないと決めました。2年で解決できました。従前の区長たちは、相手企業の社長に面会することをためらったことと200億円以上の価値の土地交換で、不正を疑われる恐れがあったことなどです。この土地交換で、私は1円たりとも受け取っていません。強い意志で、正々堂々交渉を進めることができました。議会で疑いの質問が来ました。それは自分たちが口利きでいい加減なことをしていることを証明しているようなものだと感じました。

3つ目は飯倉小学校の統廃合です。港区は児童数100人未満の小学校は廃校の検討に入るという規則があります。当時、飯倉小学校の児童数は30名、教職員数は42名。一部の親は、児童1人で先生2人という恵まれすぎた環境に満足していました。まともな学校運営ができません。1人の児童数あたりの経費は400万円。大学医学部並み、アメリカの名門大学の年間授業料並みです。港区の一般的な小学校の児童あたりの経費は80万円です。児童数から見ても、経費から見ても統廃合を進めなければならない状況でした。それまでの区長も教育長も政治問題化することを恐れてか、放置してきました。平成15年統廃合を具体化しました。こういう事態で、普段は経費節減を声高に主張する議員は統廃合反対。二枚舌です。また、児童がかわいそうと、マスコミも、普段は行政の経費削減を主張しながら、反対の論陣でした。二枚舌です。

しがらみがないこと、明確な立場で仕事をすることで、具体化できました。課題を先送りすることはいけません。