日別アーカイブ: 2016年7月27日

ベルリン、イスタンブールなどの工事現場の美しいデザイン。

ベルリン、パリ、ローマ、イスタンブールなどの諸都市を歩いて感銘を受けることは、工事現場の美しさです。1999年ベルリン崩壊10周年の建築国際会議に出席しました。再開発の現場に強烈な赤の「現場展示場」が設置され、多くの観光客が工事現場を視察していました。また、仮設の上下水道管が道路上空を跨って設置されていましたが、ピンク、緑などきれいに塗装され、殺伐になりがちな工事現場の雰囲気をよくしていました。また、クレーンの色も工事現場の景観をよりよくする配慮がされていました。

2016年5月建築の国際会議でイスタンブールを訪問しました。石造の古い寺院の改修工事をしている現場で驚きです。仮設のシートは実際の石組みをプリントしており、遠くからはリアルな石造としか見えない配慮がされています。工事現場の仮囲いのデザインの美しさはパリ、ローマでも見ました。

日本の工事現場は清潔で安全配慮がされていますが、仮囲いのデザイン、景観配慮については大きな課題があります。広告物条例とも関連します。港区長時代、ある開発業者が青山通りの工事現場で美しくデザインした仮囲いを建て、青山通りに賑いを創出しようと考えました。その方が港区役所に広告物条例に基づき仮囲いのデザインの許可申請を出したら却下されました。都議会議員O氏がその方をお連れになり、区長室を訪問、事の経緯を説明しました。私は街を美しくし、賑いを出してくれるならありがたい話と理解し、東京都が施行している広告物条例の弾力的運用を部下に指示しました。広告物条例の本来の目的は都市を美しくすることです。実際は新宿歌舞伎町の繁華街のように写真を撮ると看板しか写らない都市が残念ながらできているのが現実です。広告物条例の運用について石原知事と議論してもよい、という覚悟で指示しました。そうこういっているうちに石原さん自ら広告物条例を改正、都バスのラッピング広告、都電のラッピング広告、電車のラッピング広告などあふれるようになりました。役人は厳格に法律や条例を執行するのが仕事です。上記の港区の職員は条例に基づき正しい判断をしました。そこから先は「政治判断」です。私は街を美しくするため、また、街ににぎわいを創出するため、当時の広告物条例の問題を指摘し、弾力的運用に踏み切りました。良かったと思います。

港区長秘話その31、毎年1000万円奥さんに差し上げます。!

港区政を水面下で調整(別の言葉でコントロールと言えます)する人物がいました。現在もでしょう。世間的には無名の方ですが、その筋では有名人のようです。仮にK氏とします。区長時代「奥さんに毎年1000万円渡します」と笑顔で言われました。私は笑顔で即断りました。バカバカしく思いました。また、政治の世界はそのようなものかとも思いました。その元はどこから生まれるのでしょう。区長時代の現実の一コマです。

区長秘話ーその30 区長室のレイアウト・デザイン

学生時代オフィス・デザインの研究をしました。今流で言うところの快適オフィス。区長室(あるいは社長室)を訪問する機会はまずありません。たまたま区長室の主になり、専門家として感じるところが多くありました。1985年頃の設計です。設計は最大手のN設計。驚き、まずコンピューターの配線がない(区長秘話ーその24に既述)、天井が2.4mと低い、などです。区長室のレイアウトに問題がありました。扉の脇に衝立を置いてデスクが南面して置かれていました。光天井の位置は机からずいぶんずれて照明が暗いです。わかったこと、当初設計では、机は部屋の奥で、机に対し区長は北向きに座るようになっていました。光天井の位置からわかりました。風水を信じるかどうか別として、日本では古来指導者は南に向かい(あるいは東)仕事をする伝統です。北向きは縁起が悪いです。その時代の区長は任期途中で病死しました。その後の区長は、縁起担ぎで机の位置を北側に変え、南面して仕事したのでしょう。私の前任の区長はヘビースモーカー。机の上の天井を見上げるとたばこの煙で黄ばんでいました。トップの部屋のインテリアを研究したいですが、現在はセキュリティの問題もあり、至難の技です。設計者でトップの部屋のデザインをする際はぜひ私の経験をお教えします。

トップの部屋のデザインについて関心を持ったのは昭和48年、大阪にある文具、家具の大手K本社を訪問した時です。アポなしで、新築間もないK本社を訪問し「早稲田の建築の学生ですが見学させてください」と受付に申し出たら建築職の田中さんという方が、私の不躾な依頼にもかかわらず丁寧に案内をしてくださいました。その際、幹部フロアーも案内くださいました。セキュリティのことを気にしなくてよい時代でした。田中さん曰く「歴史的に指導者は南か東に向かって仕事をします。したがって、社長室は北側か西側に配置します。K社では北東に社長を配置し、机は東向きにレイアウトしました。」なるほどと感心しました。ご縁は面白いもので、港区長就任後、品川駅前(港区です)にK社のショールームがあり何かのイベントで訪問したら30年前にご親切に大阪本社をご案内下さった田中さんと再会しました。互いに不思議な縁を感じました。

港区長秘話ーその29 助役就任の際の区長への虚礼挨拶、廃止

平成12年6月から平成16年6月までの区長任期中、2人の助役(現在は副区長)の人事がありました。それまでの慣例で、助役就任の際、奥さんを伴って区長宅を訪問、挨拶をする習慣があると聞きました。欧米では大統領就任式、選挙活動、閣僚承認議会聴聞の際に、奥さんや子供が同席する様子を見て微笑ましいと思っておりましたので、幹部の奥さんと会話するのは有益なことと思いました。しかし、区長の自宅に来るとなると手ぶらでは来ません。菓子折り程度は持参するでしょう。下手すれば商品券等が菓子折りに入っているかもしれません。私はそうした虚礼挨拶は無しとすると厳命しました。本来は幹部の連れ合いの方とも様々言葉を交わし、信頼関係を築くことは大切です。しかし形式ばった挨拶、ゴマすりは無しがよいです。部下の訪問を受けご満悦するリーダは、その意識だけでリーダー失格です。リーダー論です。

港区長秘話ーその28 情け人のためならず、母の教えと障がい者団体との交流

平成12年6月28日区長に就任後、様々な団体との挨拶と交流が始まりました。視覚障害者団体である「港区盲人協会」の会合に出席しました。S会長は「港区役所の障害福祉政策は問題あり。区長は我々の苦しみがわかるか!」と激しい口調でした。港区役所の障害者施策に課題もあったのでしょう。また、S会長ご自身の大変な人生を背景に区長に訴えたい思いがあったのでしょう。同席した障害福祉課長W氏は答弁に困惑の体でした。私は2つ申し上げました。①私は1996年「地域の福祉施設」という本を書き、建築計画を通じて福祉の勉強をしてきました。②母が武蔵野市の盲人協会のボランティア活動(外出介助)を40年近く務めてきました。母がボランティア活動する日は家で私が食事当番をし、そういう点で私は母のボランティア活動を支え、母から視覚障害者の話をよく聞いておりました。の2点です。S会長は後日武蔵野市盲人協会に私の話が事実か照会したのでしょう。(さらには区長に就任する前の平成10年頃、東京都の福祉施策の行政評価の仕事も担当させていただきました。また、1981年から東京都高齢者事業振興財団の専門委員を務めさせていただきました。)

次の港区盲人協会の会合でS会長は「区長さんのお母様、原田先生(私の母は華道(日本いけばな百傑展同人)、茶道の先生をしていましたので、人により「先生」と呼ばれていました)には私どもの仲間が大変お世話になっておりありがとうございます」と温和な態度になりました。そういう方の息子なら信頼できます、とのことで障害者団体の皆様は少なくとも原田敬美は福祉に理解のある区長と認識をいただいたようです。(実際福祉の専門書や論文を書いた区市長はそう多くはいないと思います)母の長年のボランティア活動のおかげで港区長として福祉関係者と信頼関係の中で施策を推進することができたと思います。「情け人のためならず」の言葉を再認識した次第です。「福祉頑張ります」と空念仏のような政治家、公務員が多いのも事実です。