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港区長秘話その44 沈着冷静、機転の利くH課長

沈着冷静、機転が利くH課長がいました。①現職の同僚が亡くなった葬儀の席で同僚を代表し立派な弔辞を読みました。なかなかできることではありません。②ある時アポなしで地域整備公団のY理事が都心型産業育成の話をしにH課長を訪問しましたが、話の内容から「Y理事を区長に引き合わせたほうが良い」と即断、理事Y氏を区長室に連れてきました。3人で意見交換をし話が盛り上がり、その施策は具体的に実現させました。この人物を区長に合わせたほうがよいか、そうでないか機転が利く判断でした。Y理事は通産省の私の友人のI 課長の同僚でした。Y理事のアポなし区役所訪問も見事です。やる気満々が伝わってきます。③鶴見の総持寺で職員家族の通夜がありましたが、運転手が道に迷い、たどり着けません。H課長が近所に住んでいることを思い出し、電話したら、公用車の場所を特定し、「そこで待っててください、すぐ迎えに行きます」となり、間もなくH課長は自家用車で到着、公用車を通夜の会場に誘導してくれました。機転が利く方でした。④港区役所と地元の金融機関が合同で経済講演会を開催しました。招聘した講師はR大学の経済学者S氏、テレビでも時々笑顔でコメンテーターで出演するタレント的な方。控室で私がお礼の挨拶をし、H課長が講演料を渡し領収書に署名、住所の記載をお願いしたところ、なぜかS教授は怒り出し、「こんなことさせるのは役所仕事だ」と大声をあげました。テレビの笑顔とは別人です。H課長は冷静に発言を続け、署名をいただきました。公金をお渡しする以上、署名、住所を書いていただく必要があります。S氏は裏金でももらい、税務申告を避けたかったのでしょうか。テレビで笑顔のタレント教授の素顔を見たり、という気持ちでした。H課長の沈着冷静ぶりは見事でした。頼りになる管理職でした。

組織運営論、水平、敬意、自ら進んで、

同窓会会長を3つ仰せつかりました。1994年早稲田大学国際部同窓会会長、2009年早稲田大学技術士会会長、2010年フルブライト同窓会会長です。早稲田大学の技術士会会長は現在も継続しています。そのほかNPOの理事長、いくつかの勉強会の幹事など頼まれています。会の規模、目的も様々です。共通して心がけることは、①水平型、②相互に敬意、③自ら進んで業務を担当する、です。

①水平型について、年齢層が様々ですが、後輩、年下、新人会員に対しても「さん」づけすることです。先輩、後輩、序列をつけないことです。②相互に敬意について、発言は自由、相手に敬意を表することです。③自ら進んで業務を担当するについて、お互い誰かが仕事を担わないと会は動きません。数十人程度の組織であれば、だれもが等しく業務を担当することが必要です。時々、ウーン?と考えこんでしまう言動の方がいます。後輩に「〇〇君」あるいは呼び捨てにしたりする方、理由もなく大声で威嚇したり、凄んで見せたり、「おめー!、てめー!」など聞くに堪えない発言をする方、そういう席で俺は偉いと先輩面して自己満足の目的で会に出席する方、人には業務を押し付け、自らな何もしない方、などが時時見られます。会議中、ふんぞり返ったり、ガムをクチャクチャ噛んでその音が会議室に行き渡るくらいガム好きな方、帽子をかぶったまま席に座っている方、だらしない恰好で座っている方、…他人に迷惑をかけているなど全く自分が見えていない方です。

やんわり注意したりしますが、意識が低いのか、理解しようとしないのか、なかなか分かってもらえません。

その他、自分の利益のために組織を悪用する方も問題です。会の理念、規則、原則を設け、それに反する方は辞退していただく必要があります。会員が楽しく、また、目的を達成する組織運営にしなければなりません。

港区長秘話43 嫌な仕事を担当したY課長

港区長に就任した平成12年6月、担当から区長に報告がありませんでしたのでしばらくの間承知していませんでしたが(それ自体問題です)若い女性職員の公金横領疑惑がありました。その金額1000万円以上です。3年以上にわたり横領していたそうです。当該職員は翌年の平成13年2月に逮捕されました。その間彼女は所轄の愛宕警察署に任意聴取のため何度が呼ばれたそうです。その際、逃亡、自殺など事故防止のためY課長が愛宕警察署まで同伴したそうです。いい仕事でありません。事件の後、Y課長の責任感に対し慰労しました。(事件はY課長時代の時ではありません)U助役に命じ、そういう嫌な仕事をした管理職に人事である種の配慮をしなければいけないと伝えました。Y課長を部長級にしました。

後日談です。若い女性職員は横領したお金でブランド物を買っていたそうです。前職はX県警本部。武井人事課長に注意喚起しました。「X県警を辞めて再度、地方公務員試験を受けて港区に就職するのは不自然であり、どういう事情があったのか、また、仕事ぶりはどうだったか、X県警人事課に照会するのが採用担当の人事課長の責任である、気を働かせろ。」と伝えました。「私の事務所は小規模ですが、官庁関係の仕事、すなわち個人情報など扱うのでそういうことに意識の高い人材を採用しなければならないので、十分な配慮をしたこと、また、お金を適切に扱うため、小口現金金庫に朝、夕、いくらの現金があるか、切手などがいくら入っているか、2人で確認し、正確に取り扱うようにしていますので、私の事務所の方が厳格で、港区役所の現金扱い方法は問題アリ、また、職員採用について、原田の方法からすると原田の方が人事課長に向いている。」と厳しく注意をしました。また、職員がブランド物を多く身に着けていれば「公務員としてふさわしくない。」と注意するのも管理職の義務であると注意しました。私の区長退任後、港区で大きな事件があり、連絡体制、事後処理で問題があり、やはり又か、という思いでした。この横領事件は私の区長時代のことでありませんが、事件が発覚した時の区長ですから、議会や様々な席でお詫びし(90度に腰を折り曲げて)給与を自主的に50%返還しました。組織の最高責任者としての責任の取り方です。また、緊張感が欠ける職場にしてはいけません。石原元知事や橋本大阪市長は、職員に問題があると記者会見で職員をバカ役人を叱って終わりで、最高責任者として自ら責任をとることはありませんでした。これも問題です。

港区長秘話ーその38 余計な仕事したくない?U助役の本音

港区長時代、アメリカ大統領ブッシュ氏が夫婦で来日しました。新聞報道によるとブッシュ夫人は小学校を視察したいとのことです。私はご婦人が港区内の小学校に視察に来ていただけると、児童にとり一生の思い出になるから、心の中で是非港区内の小学校に視察に来ていただけるとよいと思いました。私事ですが、私が学生時代に留学したのはテキサス州ヒューストン市にあるライス大学。ブッシュ氏はテキサス州を地盤とする政治家。先代のパパ・ブッシュは1990年サミットのホストとしてライス大学を会場にサミット会議を開催しました。そうしたことからもブッシュ大統領に親近感を感じておりました。

結果として大統領夫人は中央区内の小学校に視察しました。私個人としては残念という思いでした。ところが当時のU助役は「大統領夫人が港区に来なくてよかったですね(来ると様々事前の準備など大変、余計な仕事が発生する)」と私にささやきました。「ばか者」と即座に叱りつけたかったですがグッとこらえました。要は「面倒な仕事、余計な仕事はしたくない」というバカ役人の本音が出ました。港区の子供にとり、アメリカ大統領夫人と会い、話を聞き、場合により夫人と会話をする、握手をするということで子供たちにとり一生の楽しい思い出になります。そうした子供たちの夢よりも、自分の仕事の都合を優先し、面倒だから、…という本音は情けないことです。U氏の本音を見たり。こういう人物の下で仕事をする部下は、かわいそう、あるいは積極的な仕事への取り組み姿勢が削り取られてしまいます。後日関連のエピソードを書きます。

港区との赤い糸、不思議なご縁

昭和54年(1979年)父が所有する港区のマンションに結婚を機に引っ越しました。港区民になりました。(マンションの賃貸料という形で父親に一定額支払い続け、相続の時は全く問題ありませんでした。こうした長期間の相続準備も大切なことです)

事務所を開設するにあたり、当初、知人の後楽園の事務所を間借りする形で仕事をしましたが、しばらくして早稲田の先輩で六本木で不動産業をしている方に「とにかく安い事務所(たとえば町工場、駐車場のような空間で結構ですと言って)を探してください」とお願いし、現在の六本木の事務所をご紹介いただきました。港区内事業者になりました。

昭和58年(1983年)港区役所企画課の副主幹(課長級)のTさんという方から自宅に電話がありました。お会いすることになりました。「港区長の私的な諮問機関として港区まちづくり懇談会、座長は世界的建築家の丹下健三氏、という組織がありますが、メンバーは相当高齢で、区長から若い区民を入れろと指示があり、若い人材を探した結果、原田さんにお願いすることにしました。」という内容でした。名簿を見て驚きました。丹下先生はじめ港区に住まう著名人ばかりです。恐縮しながらお受けさせていただきました。2か月に1度の開催です。委員報酬は、著名人を対象にしていますの当時破格の3万円。若造の私にとり大金です。当時の区長の死去に伴い懇談会は解散。その後、港区役所で様々な公職を依頼されました。40代(1990年代)になり、港区役所で頼まれる委員の数が増えました。野党議員と直接対決する機会も増えました。港区役所から事前の説明を受けませんので、当日ぶっつけ本番の議論でした。何でも反対する野党議員の委員に積極果敢に反論、区側の政策提言に対し前向きに発言するスタンスは当時の港区役所の幹部たちからは結構頼りにされたと思います。

その時の区長が突然引退表明、後でわかったことですが、評判のよくないいわゆる利権屋議員が出馬準備をする中で、適当な候補者が見つからず、港区のいくつかの委員会で元気に発言していた私が候補に指名されました。目に見えない赤い糸、不思議なご縁を感じます。目に見えない糸、ご縁を大切にしましょう。

 

 

アメリカの大学の親切さ、日本の大学は?

1969年早稲田大学の交換留学生としてアメリカに1年間留学しました。いずれアメリカの大学院で建築の専門的な勉強をしたいと思い、多くの大学院に案内書を請求しました。B-5サイズ程度、厚さ2㎝位のカタログが送られてきました。無料です。カタログには大学の理念、シラバス(授業内容)、入学志願の手続き、教授陣リスト、教授陣の経歴などが記載されています。手紙が添付され、「我が大学にご関心を持っていただきありがとうございます。何かご質問がありましたらご遠慮なくご連絡ください」と書かれていました。日本に帰国後も多くの大学にカタログ(案内書)を請求しましたが、航空便で送られてきました。日本の大学でこのようなサービスをする大学があるのだろうか?と思いました。こうした親切な対応があるから、世界中の若者がアメリカの大学で学ぼうという気持ちが湧いてくると思いました。

カリキュラムを見ると面白いことがわかります。①一斉入学試験ではありません。書類選考です。海外から気楽に応募できます。3通の推薦状、応募理由書、成績証明書、自己PR(クラブ活動、地域活動、専門分野の能力の自己PRなど)、外国人の場合に英語能力を証明する試験成績書(TOEFL、TOEIC)などの書類を提出します。②日本にないダブル・ディグリー・プログラム(1度に2つの修士号を取得する)、おそらく未だに日本の大学ではこうしたカリキュラム体制はないと思います。③教員の経歴を見ると、学士、修士、博士の学位を取得した大学がほとんどの場合、異なる大学であること(日本では、学士、修士、博士、ほとんど同じ大学です)、④大学教授はほとんど他校出身者であること。(しがらみ、利害関係を排除し公正な大学運営をおこなうため)こうした点も日本の大学は参考にすべきです。

私は、最初の留学の時に友人や先生方から建築の大学院ならヒューストンのライス大学がいいと話を聞いていたので、(小規模大学、ヒューストンという都市は面白い(当時人口100万人から現在200万人で全米第4の都市に発展、建築や都市を勉強するのに適格)ライス大学に絞っていました。早稲田の大学院生の時、ライス大学に入学したいと経歴書や研究実績やデザイン受賞の実績を送りましたら、驚きました、学科長から「あなたを受け入れます」と返事がありました。入学合格の手続きが非常に弾力的です。こうした選考方法も面白いと思いました。ライス大学の学科長は、私の2度の留学、日本の建築学会などでの論文寄稿実績、日本建築学会での設計競技の入賞歴などで問題ない志願者と判断したのでしょう。

大学から定期的に送付される同窓生向けパンフレット。最初の留学先のThe College of Wooster, 2度目のRice Universityと2つの大学から春夏秋冬、週刊誌程度のニュースレターが送付されます。また、大学学長から「Keimi Harada」と宛名が記載された手紙(大学の近況など)も送付されます。無料です。日本の大学でこのレベルのサービスをしている大学があるでしょうか?こうしたサービス内容も日本の大学は参考にすべきです。

私は独立自営の立場ですが、現在でも時々国際会議や海外の大学に招聘され講義、講演をします。その時面白いことを発見、体験すると、せっかくだからと思い母校の総長あてに手紙を書き、資料を添えて送ります。私自身港区長を体験し、投書などの取り扱いに慎重に丁重にしておりました。「お手紙ありがとうございました。大学運営の参考にさせていただきます」などの返信は全くありません。ご多忙な総長から直接返信をもらう期待はしませんが、組織として総務課長、秘書が代わって、そうした投書に対応するのが社会マナーです。そういう点、母校のシステムは大きな問題アリです。世界大学ランキングが報道されますが、そうしたサービス精神も上記の内容と含め、低く評価される要因の一つと思います。総長、役員、事務局スタッフはもっと世界の大学の諸状況について勉強すべきです。感覚が明治時代の象牙の塔を未だに抱いているように感じます。テレビなどで大学教授は評論家として政治、社会批判をしていますが、最も批判されるべきは欧米の大学と比べ、旧態依然たる、サービス精神に欠如した大学かもしれません。

 

 

フルブライト留学生試験合格のための大作戦

1974年念願叶いフルブライト留学生としてヒューストンにあるライス大学建築大学院に留学しました。振り返りますと大作戦が見事実現したといえます。何かの試験に挑戦する後輩にお奨めの作戦です。さらには様々な挑戦に活用できます。

1ドル360円、日本の大卒初任給が4万円の時代、アメリカに行くだけでも、航空運賃は手が届かない額でした。大学の学費も日本の大学学費の数倍で一般の日本人の経済力では支払える額ではありません。奨学金、できればフルブライト奨学金をいただきアメリカに留学したいと18歳早稲田大学に入学した時から、私にとり大きな夢、不可能と思われる夢を抱きました。試験でとにかくある集団の中で一番にならないといけない、自分には特別な能力がないと自覚しており、ただ、ひたすら努力を重ねるしかないと思いました。

私が考えた大作戦です。審査員に評価いただくためには何か特別な実績が必要と思いました。予行演習的な留学、自分の専門の建築学会に論文を寄稿したり、できれば何かの賞をいただければ立派な評価材料にもなると考えました。①留学の実績です。1969年早稲田大学の交換留学の試験に合格、アメリカに1年間留学することになりました。また、1971年スウェーデンに技術研修留学することになりました。2度の(予行演習的な)留学は実績として審査員に相当アッピールできると思いました。それぞれの留学先の指導者から好意的なフルブライト受験に際しての推薦状をいただきました。②論文の実績です。早稲田大学大学院在学中、指導教官穂積教授の助言で日本建築学会に論文を3度提出しました。内容の良しあしは別として審査員へのアッピール材料になりました。③受賞実績。②と同様指導教官の助言で、日本建築学会の設計競技に参加、修士1年生、修士2年生の時、それぞれ受賞しました。早稲田大学の建築学科のデザイン専攻の学生はデザイン競技への参加は必須でしたが、早稲田大学では私だけが入賞、しかも、2年連続入賞しました。偶然はその時の学会の関東支部長は早稲田の安東教授、学会長も早稲田の吉阪教授。お二人の署名のある賞状を頂き名誉でした。お二人の教授からのお褒めの言葉をいただきました。④フルブライト受験の前にすでにライス大学建築大学院の学科長から入学合格の通知をいただいておりました。ライス大学建築大学院に留学したいと私の経歴、実績を同封し郵送したらあなたを受け入れますと返事をいただきました。日本の大学と異なり、手続きが弾力的なのは驚きですし、日本の大学もいずれ参考にしなければなりません。大勢の受験者の中で、大学院の合格通知をもらっている志願者は私以外におそらくいないと思います。また、多くの受験者は留学先の希望として所謂著名大学の名を挙げたと思います。私は様々な理由を挙げ、ライス大学の希望をアッピールしました。

上記の①、②、③、④の実績をアッピールし、後日、無事、見事、首席で合格通知をいただきました。その中には、フルブライト委員会としてハーヴァード大学、コロンビア大学、k-ネル大学の3大学の推薦リストが記載されていました。が、初志貫徹でライス大学にしました。後で漏れ伝わった審査評ですが、5人の審査員全員一致の結果だったようです。

結果論ですが、大作戦が当たりました。作戦を立て、6年かけ私の夢を実現しました。私にとり4年間毎日12時間の訓練を続け、オリンピックでメダルを取ったような心境です。大きな夢を持ち、ひたすら頑張り、夢を実現することは大切です。若い方に大きな夢を持っていただきたいと念じております。一方で人の夢にケチをつける嫌がらせには断固反発。夢を描けない、夢を持てない不幸な輩がいます。

森ビル元社長森稔氏、大きな夢と高い教養をもった方。

森ビルは港区内の不動産開発会社、世界的に有名な企業ですが、いわば地場産業です。森社長と最初にお目にかかったのは区長に就任する前の平成10年、森ビルが主催するアーク都市塾のワークショップ後の食事会の時でした。私は恩師のアーク都市塾講師菊竹清訓先生の助手という立場でした。テーブルに先に座っていると、森稔社長が現れ、私の隣が開いていたので私の隣に座りました。私は挨拶をし、オフィスのインテリア(私は1971年スウェーデンでオフィスインテリアの研究をしましたので)執務空間の快適性の話題、欧米の都市開発の話題(私は20代の時から欧米の都市開発事例を見ています、また理論的な研究もしました)をネタにし、森社長と会話をし、話が盛り上がりました。また、当時、私は港区の都市計画審議会委員や超高層問題研究会会長を務めておりましたので、そうした話題についても意見交換をし、話が盛り上がりました。

平成12年6月区長に就任し、時々お目にかかる機会がありました。私の立場からするとウマが合いました。私は欧米で勉強したので、社交は欧米流好みです。つまり、夫婦同伴、家族同伴です。欧米の社交では日本のような料亭やナイトクラブでの接待でなく、自宅でのホームパーティなど家族ぐるみが主体です。また、大使や大臣、CIA長官人事承認の連邦議会聴聞会でも本人以外に両脇に妻や子供を陪席させ、国会議員やマスコミに家族の姿を見せるのが慣例です。森稔社長との交流の際は夫婦同士で、ある時は森社長のお子さんも(立派な社会人ですが)同席し意見交換をしました。奥さまは英語を流暢にお話になり、私の妻は若い時同時通訳をしておりましたので英語を話し、特に大使など外国人と一緒の交流会では英語で会話し、文化、芸術、建築、都市開発などをテーマに意見交換をしました。大手の不動産会社と異なり、地べたを這うように長時間かけ権利者を説得し、再開発事業を実現する忍耐力には敬服です。六本木ヒルズでは最も高い賃料を稼ぐことができる最上階に美術館を配置したのは森社長の文化、芸術に対する高い見識の結果と思います。森社長は高い教養と大きな夢と理想を持った方でした。

私のアメリカでの指導教官は当時ハーヴァード大学大学院長のピーター・ロウ氏、修士号審査教授はMIT大学院長のアデール・サントス女史です。例えて言うと、東大の教授たちが教えを乞いたいと研究員などの肩書で研究留学する相手ですので、森稔社長も私の都市開発、建築デザインの知識の対してはある種の信頼感を持って下さったことと思います。また、私は森社長に対し政治資金パーティ券を押し売りするわけでもなく、付き合いやすい人物と思ってくださったと思います。 今後の森ビルの事業展開に期待しております。

港区長秘話ーその41 困った筆耕

平成12年6月就任し翌年の3月の年度末、退職の辞令交付があります。私は筆、墨で直筆の署名を書かなければなりません。英語のサインなら得意ですが。お習字は小中学校の時、少し習っただけです。その後筆で署名をする機会はほとんどありませんでした。区長机、自宅の机に新聞紙を敷き、何度も「原田敬美」と縦書きで練習しました。「個性」的な署名で勘弁していただこうと芸術的?、個性的な署名を和紙に書き秘書に渡しました。もしかして希少価値が生まれるかもしれません。

後年、平成24年私が主催者として天皇皇后両陛下をお迎えしレセプションを開催しました。慣例に従い、事後皇居に伺い両陛下に行幸啓御礼の記帳をしました。和綴じの立派な和紙に墨と筆でお礼の短文を書きましたが、上記のとおり、筆で書く経験は全くないものですから、上手い下手ではなく、ただひたすら心を込めて書くしかありませんでした。筆書きも若い時習っておけばよかったと反省しきりです。

南米時間、リオ・オリンピックの課題

リオ・オリンピック、すばらしイベントでした。一部に、時間管理について課題指摘がありました。日本で生活していると、朝の通勤ラッシュ時に正確に2分おきに到着、出発する電車を使い、それが当たり前と思っています。1991年アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された建築家のビエンナールに参加、講演しました。世界中からスーパースターの建築家が多く参加しました。新国立競技場で話題になったザハ・ハディットもいました。会に参加し、やはり南米だなと感じました。時間管理の問題です。月曜から土曜日まで6日間の講演会のイベント。夜6時過ぎにその日の日程が終了すると、主催者からパーティに連れ出されました。今日は市長宅、次は建設大臣宅…という具合。バスで連れて行かれますので、自分でホテルに戻れません。深夜2時くらいまでパーティが続きます。会話のネタを多く持っていないと間が持ちません。また、ジョークも大切です。(この辺は日本人が不得手な部分)(元区長S氏にご注進があったのでしょう。元区長から原田はしゃべり過ぎと注意されたことがありました。自ら会話の誘い水を出すことも大切です)大会次第によると翌朝10時から講演会と記載されていますので、真面目に講演会場に行くと、500人以上入る会場には誰もいませんし、講演者もいません。時間の経過とともに、三々五々人が集まります。逆に南米の建築家は予定時間の倍の時間もしゃべって、オーストリアから来た建築家に(時間厳守の習慣があると思います)そろそろ止めろと野次が出ました。He shall stop!という野次です。文化の違いの例です。東京オリンピックでは施設建設、準備も時間通り、大会運営も時間通り進むことと祈っております。

追記、日本で建築家の講演会というと建築学科の学生など専門家、オタクが聴きに来ます。ブエノスアイレスで驚いたことは500人以上の聴衆の多くは「普通のおばさん」でした。文化度が高いと思いました。日本でこれだけのおばさんの聴衆が集まるのは「杉良太郎」のイベント(話題が古いですかね?)くらいでしょう。