月別アーカイブ: 2016年8月

学生時代、世界の建築指導者にインタビュー、物おじしない態度、貴重な体験

1971年22歳の時スウェーデンに留学しました。フィンランドを代表する世界的建築家のレイマ・ピエティレの作風に共感を覚えました。不規則、不整形なデザインで日本の生け花の造形思想を感じました。タンペレの教会、ヘルシンキ工科大学のディポリ学生センター、オタミエミの集合住宅、大統領官邸などです。ぜひピエティレに会い、氏のデザイン哲学を聞いてみたいと思い、フィンランド人の建築家の友人に氏の事務所の住所を教えてもらい、面会要請の手紙を書きました。しばらくし、氏の直筆の手紙を受け取りました。面会OKの返事です。喜びいさんでヘルシンキにある氏の事務所を訪問。氏にデザイン哲学を聴きました。それは、「原田敬美の原稿集」に、「レイマ・ピエティレ」という拙稿がありますのでご笑覧下さい。世界を代表する建築家に直接お会いし、お話を聴けたのはすばらしい体験、刺激でした。

1975年26歳の時ヒューストンのライス大学に留学中、ヒューストン市にアメリカを代表する世界的に有名なフィリップ・ジョンソンが設計したペンゾイルのオフィスが竣工しました。ニューヨークタイムズの建築評論家アダ・ハクスタブル女史曰く、世界で最も美しいオフィスビルです。彼女の講演をライス大学で聴きました。ジョンソン氏はいわゆるインターナショナル様式と言われる現代オフィスに見られる鉄とガラスの水平、垂直のラインを特徴とするデザインです。ぜひフィリップ・ジョンソンに会い、氏のデザイン哲学を聞いてみたいと思い、ジョンソン氏に面会要請の手紙を書きました。OKの返事をもらい、喜びいさんでニューヨーク市のパークアベニューにある氏の恩師のミースがデザインしたシーグラムビルにある氏の事務所を訪問しました。1時間、氏のデザイン哲学を聴かせていただきました。「原田敬美の原稿集」のオフィス分野に1975年インテリアに拙稿があります。

ご両人とも世界の指導的建築家、スーパースターの建築家です。今振り返りますと、学生の分際でよく思い切って、大胆に面会申し込みし、実際面会しインタビューをしたものだと、今となっては良い思い出です。こうした経験は区長時代の積極行動姿勢にもつながりました。トップは自ら積極的に動かなければなりません。港区職員、議員は私の学生時代のこうした活動実績はご存じないでしょう。

コンパクトシティ、ストックホルムの体験

コンパクトシティを目指し都市を作るという動きがあります。環境、子育て(通勤に時間を要しない)、土地利用の効率化などの観点から結構なことと思います。コンパクトシティの良い例があります。1971年に留学したスウェーデンのストックホルム市です。当時、国の人口800万人、ストックホルム市の人口80万人。私の住んでいた場所は、中央駅から地下鉄で10分。周囲は白樺林で、私のアパートは駅前の10数階建てのアパート。下は商業、保育園、中間階が単身者用(いわゆるコレクティブハウジング)、上階がファミリータイプでした。高層のアパートが駅前に数棟あるだけであとは自然林。放射状に延びる地下鉄沿いに、駅前に中高層の住宅が立地し駅と駅の間は自然林です。中央駅からおおよそ20分圏内で都市が形成されていました。地下鉄、バスの公共交通機関が発達していますので、道路の渋滞もあまり見ませんでした。10年前ストックホルムを訪問した際、市役所の都市計画局長の説明で、中心部近くの運河沿いの工場地帯が美しい環境に配慮した住宅街に変貌していました。ハンマビー・ウォーターフロント・都市です。コンパクトシティに関心ある方、優れた事例として是非訪れ視察してください。

港区長秘話40 オリンピック、攻め、得意技の活用。区長の姿勢も同じ。

オリンピックの様々な種目を観戦していると、解説者は共通し競技者の「攻めの姿勢」を称え、競技者の得意技を称えます。港区長時代、同様の考え方で仕事をしました。職員に積極的に指示を出す、報告書などでミスがあれば積極的に指示を出す、議会に対し、特に野党に対し、積極的に対応するように心がけました。私自身は政治の世界は未知の分野です。自分の得意の土俵で、得意技を使わなければ、自分が追いやられてしまいます。柔道100キロの選手にあなたは体力あり、運動神経がいいから100m競走に出てくれと言われて出る競技者はいません。

私も同様です。自分の得意技で政策作り、政治の議論を前に進めなければなりません。それぞれやり方が異なります。中学生の頃、プロ野球に大洋ホエールズ(現DeNA)に近藤和彦という3割バッターがいました。バットを横に倒してぶらぶらバットを振りながらタイミングをとり打つ方法です。王さんの一歩足打法は有名です。イチローの振り子打法も有名です。独特の打法です。原田流の打法、試合運びについていくつか批判的な言葉が届きました。私を推した方は私に何を期待したのでしょう。操り人形かロボットとでも思ったのでしょうか。

シンクロ、銅メダル、1日12時間特訓。学生時代英会話特訓1日8時間

リオ、オリンピック、シンクロで乾・三井組が銅メダルを獲得。おめでたいことです。インタビューでひどい時は一日12時間も特訓した、とのことです。その特訓の成果が実り何よりです。

私は昭和42年(1967年)早稲田大学入学し、割り当てられた一般教養の英語の授業のM講師の話。「戦争中、米軍は日系人を講師に一日8時間一か月の特訓である程度日本語を理解でき話せるように訓練し(訓練中は日本語のみ話すように強制)、捕虜の尋問、日本軍の通信の傍受、分析をした」。要は1日8時間特訓すれば1か月後にある程度英会話ができるようになる、というお説教でした。M講師の話を聞き、「よーし、やってみよう。将来はアメリカ留学だ」と思い、夏休み実践しました。高校時代の友人I君が持っていたリンガフォンのレコード(買うと高額です)をテープレコーダーでテープに録音。教材は父にお願いし、父の職場で導入したばかりの唯一のゼロックスでコピーしてもらいました。I君に何を御礼したか覚えていません。30代でI君はニューヨークに移住、数年前I君は亡くなったと聞きました。私は高校時代、英語は赤点の劣等生、英会話も全く技術を持っていないゼロ状態です。夏休み特に予定もないので8月は決意しM講師の教え通り8時間英会話の特訓しました。FEN(米軍放送)を毎時5分間のニュースを聞き、テープで録音し、ディクテイション(文字に書き取る作業)をしました。文字を書き取る際、何度も録音したニュースを聞き返しました。自分では成果がわかりませんが、夏休み後の9月の英語の授業でM講師から発音が良くなったと褒められました。何事も1か月特訓するとある程度成長するものと悟りました。

現在も、CNN放送を深夜1時間、昼休みNHKラジオ英会話を聴いて耳を慣らすようにしています。毎日インターネットでニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、アメリカ建築学会の「Architect」を読んでいます。英会話力ゼロから特訓である程度身に着けました。

港区長時代、こうした経緯を理解できず、英語を話す区長に嫌味を伝える元区長や一部議員、庶務担部長がいました。努力には敬意を払うべきです。また、国際都市港区と言われる区役所として恥ずかしいことです。

元プロ野球選手豊田氏泰光氏の訃報

8月14日西鉄(現西武)、国鉄(現ヤクルト)で活躍した豊田さんの死亡記事を見ました。中学3年生の昭和38年8月TBSのラジオ放送で「わんぱく選手集まれ」という番組に、知人(千代田区麹町3丁目の町会役員F氏)の紹介で私と友人3人が出ることになりました。ゲストは王さんと豊田さん。事前に、紹介者から、王選手のほうが人気が高いから、王選手ばかりに質問しないようにと注意されました。収録は金曜日の昼、放送は日曜日の巨人・国鉄戦前です。当日、王さんはスランプを理由に欠席、豊田さんお一人の出演となり、我々が豊田さんに質問するという形式で番組が組み立てられました。提供は「ママビス製菓」。(今でも覚えています)スタジオで会いましたら、豊田さんの大きな体に驚き、端正な顔つきに驚き、紳士的な話し方に驚き、と驚きの連続でした。細かい内容は忘れましたが、話し方がうまく、我々中学生の質問に合わせ、答えてくれました。事前に仲間と質問の打ち合わせをしました。その年豊田さんが西鉄から国鉄に移籍したのでその理由を質問しようと提案したら、友人が「それは失礼だよ」と却下。社会経験を積んだ今、様々な人間関係があったことは推測できます。練習時間について質問しました。「夏場は暑いのでバテますので練習はしません(できません)」との回答でした。豊田さんのお話、サイン(今は行方不明)、スポンサーからのお土産のクッキーを手にわくわくの気持ちでTBSを出ました。豊田さんは引退後は頭脳的な解説で人気がありました。

訃報記事に豊田選手はサインに「栄光は努力」と書いたそうです。また、「だめになった仲間は酒や女で快楽を覚え、一気に堕ちていく。それを見て必死にならざるを得なかった」と記載されています。すばらしい教訓です。中学生の時の思い出の一コマを作ってくださった豊田さんに感謝です。

日本人初金メダル織田幹夫氏の体験談。

日本人初の金メダルは1932年アムステルダム大会で織田幹夫の三段跳び。早稲田大学に入学した時必修一般教養でとった保健体育の教授が織田幹夫でした。確か朝8時20分からの授業でした。一番前の席で食らいつきました。物静かに話す授業での保健体育の理論は忘れましたが、織田教授の自らの体験談は未だに覚えています。織田教授が学生時代、陸上部員だった時の体験談。「だれよりも早くフィールドに出てグランド均しをし、練習終了後またグランド均しをした。」メルボルンオリンピックの時、朝日新聞の特派員として現地で取材した時の体験談。「一人で様々な試合を取材、その後原稿を書き、東京に打電。午前3時ころまでホテルで仕事し、洗濯をし、短時間睡眠の後、また朝から取材」。一人で何役もこなすエネルギッシュな活動ぶりは大変刺激となりました。少しでも真似してやろうと思いますが、なかなかうまくゆきません。建築学科の学生でしたが、すばらしい指導者の話が聞けたと感謝です。

1964年東京オリンピック体操競技ウルトラCのネイミング

体操競技の難度は今やF、G…。1964年の東京オリンピックの体操の審査員金子氏は私の高校の時の体育の先生。金子先生から聞いた話です。当時は技の難度はA、B、Cの3段階。これでは強敵ソ連チームに勝てないので難度Cを超える技でソ連チームに対抗しようとのことで「ウルトラC」とネイミング。頑張ったそうです。今やウルトラCははるか昔の言葉となりましたが、言葉の生まれたいきさつの説明です。リオオリンピックで様々な技が生み出されました。技の難度がどこまで進むのか楽しみです。今振り返るとすばらしい先生に指導受けたのだなーと改めて実感。当時15歳の若造には先生の立場、価値を全く理解できませんでした。

区長秘話ー3 港区内都営地下鉄駅バリアフリー化の先兵、交通局長に直談判

港区長に就任後間もなく東京都交通局長を表敬訪問しました。交通局総務部長は長年の友人K氏。都営地下鉄駅のバリアフリーの問題について、30歳のころから都市問題のゼミでご指導いただいた柴田徳衛氏(東京経済大学元教授、元東京都企画調整局長、元都立大学教授)から、高齢化率5%、営団地下鉄の後に建設した都営地下鉄は急で深い階段だらけ、問題解決を図らなければならないと聞かされていました。私は都市問題に関する論文で柴田教授の受け売りですが、しばしばそのことを指摘しました。

港区長に就任したので自ら行動し、港区内の都営地下鉄駅バリアフリー化をしようと決意しました。事前に交通局総務部長K氏に強く要請しました。交通局長に港区内都営地下鉄駅(御成門駅、泉岳寺駅など)のバリアフリー化を速やかにしていただきたいとお願いしました。局長は「かかる問題で直接要請に来る区長は原田さんだけです。港区長の気持ちを重くとらえ、早く進めます。」と回答をいただきました。バリアフリー化の先兵を果たしました。その後、地元の区議、都議などの応援、共同要請活動も後押しとなり、港区内の都営地下鉄のバリアフリー化が具体化しました。交通局長、K総務部長に感謝です。

 

ニセ行革派区議のダブルスタンダード、交通費の受領

区長時代、所謂行革を声高に叫ぶ議員が数名いました。私も行革は大切なことと思い行革を推進しました。私自身は区長に就任する前、東京都庁の行革の仕事をしました。ある組織の大改革です。経費削減と人事の刷新です。建築事務所の社長ですがこういう分野の仕事もしました。

数人の議員は「行政の無題をなくせ」という言葉と裏腹にご自身の金銭問題を感じました。交通費についてです。議員は議会に出席すると一律1日6000円支給されます(現在は知りません)。1人の区議は区議会の近所に住んでいます。徒歩や自転車なら交通費ゼロ円。また別の区議は青山訪問に住んでいますので都バスか地下鉄で往復400円程度です。残った5600円は本来議会事務局に返還すべきです。恐らく残ったお金は支持者などとの赤ちょうちん代に消えたのでしょう。これはダブルスタンダードです。無駄を省け、行政はしっかり仕事しろと主張は傾聴に値しますが、そのような発言をするなら、交通費も余った額を自ら返還する行動が求められます。また、「区議の報酬は高いから下げるべきだ」と主張する自民党区議K氏がいました。周囲は「あれは選挙目当ての言動だよ」と密やかな批判を聴きました。高いと主張するなら法務局にでも供託すればよいと思います。口だけなら何でも言えますの類です。行革派と称する区議の実態これ見たり、ということです。

区長秘話38 アメリカかぶれ?!

若い時、アメリカで2度、さらにスウェーデンで勉強をしました。多くの衝撃を受けました。建築、都市、地方自治、生活の様々な局面で。ついついそうした話題が出ます。私が真面目に仕事をすることに反感を持つベテラン区議Y氏は「おめーの話はいつもアメリカの話ばかりだ」と批判。そもそも区長に対し「おめー」という言葉を使うこと自体非礼ですし、ガバナンスを理解できない愚かな区議ということです。アメリカの大統領、オバマ、ケネディなどほとんど政治経験がなく大統領に就任しましたが、ベテラン連邦議員、最高軍司令官も若い大統領に敬意を表し、その命に従います。それが組織です。それを分っていないのは残念です。

そもそも現在の地方自治制度は戦後マッカーサーが導入したアメリカかぶれの制度そのものです。(実際は似て非なるものですが)自らアメリカ式制度で仕事しているのにそれもわかっていないことが残念です。1969年留学中アメリカで見たテレビのニュースです。すでに「ニュースキャスター方式」でした。当時NHKニュースは高齢の今福アナウンサーがニュース原稿をひたすら丁寧に朗読するだけでした。その後、現在のようにニュースキャスター方式に変わりました。また、多くの番組はアメリカの物まねでした。NHKはじめ日本のテレビ局のアメリカかぶれの事例です。プロ野球も同様です。1970年代、80年代、球審はその場で右腕を挙げストライクと宣言。アメリカでは球審は歌舞伎役者のようにオーバーアクションで体を反転させ「ストライク!」と大声を出しました。今、日本のプロ野球の球審もアメリカ同様のオーバーアクションになりました。アメリカかぶれの事例です。ハンバーガーなどの食料も同様です。1970年銀座三越にマックの店が開業。長蛇の列ができました。現在日本中に様々なハンバーガーチェインが展開されています。コンビニも同様です。メジャーリーグで仕事したいと優秀な日本の野球人がアメリカに渡ります。大学も多くの教授、若手研究者がアメリカの研究を学びたいと留学します。「アメリカかぶれ」は嫉妬ヤッカミの連中の常套句です。ちなみに私は日本文化大好き人間。伝統建築を若い時から継続し現在も勉強しています。華道茶道柔道剣道など伝統文化を学びました。外国人に説明できる程度の知識は必要と思います。「アメリカかぶれ」と批判をする方は、逆に日本文化も勉強していないでしょう。