日別アーカイブ: 2016年8月9日

30歳から多くの公職を委嘱。

30歳で独立自営しました。港区長就任前まで、大学教員でありませんが多くの公職を依頼されました。自分で売り込むわけでありませんので、理由はわかりません。しかし、多くの論文など書いたことを目にとめてくださりお声がかかったと思います。時はコミュニティ問題や住民参加が話題になった時代。私はアメリカのコミュニティ政策について、当時の自治省が監修する「地方自治」に2万字の論文、神戸市が発行する「都市政策」に1万字の論文など様々な専門誌に寄稿しました。32歳の時東京都職員研修所で半年間の長期研修の講師を依頼されました。33歳の時、東京都生活文化局のコミュニティ問題研究会の委員を仰せつかりました。

34歳の時港区長のブレイン会議の委員を委嘱されました。座長は建築家の丹下健三氏、副座長は東工大の副学長、元オリンピックのスケート選手、住宅公団の副総裁など素晴らしい方々でした。しかし相当なご老人ばかりで、当時の区長の指示で誰か若いのを入れろとなり、たまたま港区企画課職員が私の書いた論文などに目を向けたのかもしれません。

その後、茨城県知事からのご依頼で県知事にご進講の機会をいただきました。私のような若造が考える政策に耳を傾けていただきました。知事は元建設省の都市局長です。

1995年建設省から21世紀長期ビジョン委員会の委員を依頼されました。

また、同年、青島さんが東京都知事に就任した際政治課題となりました東京臨海副都心開発の見直し委員を委嘱されました。

港区では都市計画審議会委員、定住対策研究会会長、環境影響調査研究会委員など委嘱されました。また、1990年代の後半、港区内いたるところで超高層住宅建設が具体化し問題になってきました。どのような条件なら認める、認めない、どのような地域なら認める、認めないという基本方針を決める必要が出てきました。港区は当時は大赤字で調査費をつけられない状況でした。1998年、港区役所都市計画課からの依頼で、予備費をかき集め原田さんに渡すので、それで原田さん自ら調査研究してほしい、併せて研究会の会長をやってほしい、位置づけは都市計画審議会の小委員会という位置づけで、研究会の結論を都市計画審議会に建議してほしいという依頼でした。研究会は私が会長で司会進行役、調査は私自らしましたので、説明役も私が担当するという一人二役、三役でした。委員は都市計画審議会の学系委員です。研究成果を都市計画審議会で報告しましたら超高層反対と声高に叫んでいた委員から反対のコメントはありませんでした。そういう点でも役に立ったかと思います。

1996年から警視庁交通部の交通安全分野の研究会委員を委嘱されました。交通事故と都市環境の関係、年齢などの属性との関係の研究は面白い内容でした。

常に、そうした委員会、研究会で野党の方と率直な議論をしました。特に港区役所では。そうした公職活動を通して、原田さんは役所に取り頼りになると思われたのかもしれません。学者でありませんが多くの公職を務めさせていただきました。区長時代も充て職ながら多くの公職を委嘱されました。多くの発言をしました。従来、多くの区長はそういう席で沈黙を守る方が多かったようです。委員を頼まれた以上、積極的に発言すべきです。

 

区長秘話その35、区内飲食店での釣銭の授受、双方驚き。

港区長時代、時々議員と食事しながら意見交換をしました。料亭やナイトクラブでありません。様々な理由で個人的に会話をしていない某与党の区議と食事をすることにしました。氏の提案であるところの寿司屋に行くことになりました。噂で氏の愛人が働いているという店です。指定された時間に行くと、氏はすでに2人の客と酒を飲みながら寿司を食べておりました。私は1人前の寿司を注文しました。氏は私の席に隣に移動し、よもやま話をしながら寿司を食べ、支払いの段になりました。私は頭の中で、自分の寿司代と氏の半人前の寿司代(その前に別の仲間とある程度食事を終っていたようですので)と氏が飲んだビール代で、およそ、数千円かなと推計しました。出てきた請求書を見て驚きました。想定の2倍以上、1万数千円でした。気持ちとして、だいぶ吹っかけられたかと思いました。この程度のことで争ってもと思い、2万円を渡し、つり銭をもらいました。当然のやり取りです。

翌朝、「原田区長はつり銭、1円まで全部受け取った。前の区長なら、釣りはいらねー、とって置け」と言ってかっこよく帰って行ったよ」と噂話が駆け巡っていました。お金を渡すことは公職選挙法に触れる行為です。聞くと、一部区議は時々蕎麦屋、寿司屋、レストラン等区民が経営する店に立ち寄り、また、梯子をして回り、釣りを受け取らず店を出ることがあると聞きました。つり銭の授受で、氏も驚き、私も驚いたしだいです。

高校時代聞いたオリンピックについて聞いたエピソード、味噌汁一杯を飲めない悔しさ

1964年東京オリンピックの年高校に入学しました。高校の体育の教師(金子先生)は今振り返りますと大変な実績の方でした。授業中も厳し指導ぶりでした。氏はヘルシンキオリンピックの時の体操の監督でした。若き小野が初参加した時です。異国の地で、ストレス、ノイローゼで大変だったと聞きました。日本食がなく、「みそ汁を飲みたい」と泣き言に近い言葉を発したそうです。当時、日本選手団で元気がよかったのは水泳チームや陸上チームで、当時は古橋など世界レベルの選手がいました。隣のチームは差し入れの味噌汁をすすり、当時は期待されていなかった体操チームには味噌汁が回ってこなかったそうです。こうした味噌汁一杯を飲めなかったの悔しい思いも奮発力の一つになったのでしょう。その後水泳、陸上は凋落し、一方で体操王国日本となりました。悔しい気持ちを持ち、前向きに進むことも大切です。

金子先生は、東京オリンピックの時、体操競技の審査員を務めました。遠藤が金メダルでした。過去の大会の実績から遠藤が優勝すると決まっていたような話をされました。遠藤は演技の途中でミスをしましたが。

高校で開催した記念講演会で1932年のロサンジェルス、オリンピック大会に体操選手として出場した本間氏が講演されました。面白いエピソードを聴きました。当時の翻訳能力の理由で、「Gymnastics」を「体操」と翻訳されました。今でも「体操」と使われています。本間先生は翻訳「体操」という言葉を見て「ラジオ体操」と理解し、本番でラジオ体操を可能な限り美しくしました。会場から失笑が生じたそうです。

文字通り今となっては笑い話です。

 

オリンピックを観戦、大きな夢もって立ち向かいましょう。

オリンピック、リオ大会、体操男子、日本が団体で金メダルを獲得しました。全国の市長や教育長、校長たちは子供たちに、オリンピック選手のように大きな夢を持って前に進みましょうとメッセージを送ると思います。子供たち、学生、若い方々に大きな夢を持ち頑張りましょうと心から応援のメッセージを送りたいと思います。私事で恐縮です。高校時代英語は赤点(不合格)もとった苦手科目でした。大学時代技術、デザインの最先端のアメリカで勉強したいという強い思いを抱き、経済的に個人留学は不可能ですから、フルブライト留学(全額奨学金)を夢に、英語の苦手意識を克服しようと頑張りました。3回の留学ということは3回の試験(英語の面接試験も含め)緊張の場を体験しました。全く異なる環境に努力し順応し、何とか留学生活を終えました。昨年度ノーベル賞受賞の北里大学名誉教授の大村智氏が2016年7月28日の読売新聞で「海外留学はものの見方の違いを学べる」と述べていました。その通りと思います。井の中の蛙になってはいけません。異文化理解も特に今の時代必要です。私がこうした話をすると、元区長氏は「留学の話をするな」と否定的なコメントを寄せてきました。また、部下であるN庶務担部長も同調してか、「フルブライト留学の話はしないでほしい」とコメントを寄せてきました。

まじめな町長の発注者としての態度

四半世紀前、中央官庁の知人の紹介で福岡県椎田町のT町長が弊事務所にお見えになりました。当時珍しいハイヴィジョンを活用したホールを建設したいので設計の相談に乗ってほしいとの要請でした。正式に設計のご依頼をいただき、東京から椎田町に月1回訪問することになりました。ある時3000円の東京名物のお菓子を買って町長室に持参しましたら、受け取り拒否されました。厳格な方でした。デザインに明確な意思をお持ちでした。好き嫌いは別として、ヨーロッパ風、レンガと石の、とりわけオランダ風にしたい、ハイヴィジョンはスクリーン一枚もの、リアプロジェクション(背面からの映写)、可動式のスクリーンを設置したいとのことで、世界初のメカニズムでした。町長の期待に応えるべく、世界初のハイヴィジョンのメカニズムを考案、設置しました。NHKのご協力がありました。また、音響も頑張り、当時九州一の音響性能のホールにしました。隣がJR椎田駅で特急が一時間に一本(上下線で2本)通過する際の汽笛と高速の振動が響きます。また、近所に航空自衛隊築城基地があり、ジェット戦闘機が轟音で離着陸します。音響設計は困難を極めました。当時、タイミングよく、オランダ、デルフト工科大学大学院修了した若い建築家を2人使っておりましたので、本物のオランダ風のデザインができました。

入札手続きを経て準大手のM建設が受注しました。後でM建設の営業担当者から聞いた話です。「営業担当者は町長と学校時代の同期生ということで、受注営業の挨拶に町長室に訪問したところ、昼時近くでしたので、町長から昼食を一緒にしようと誘われ、近所のレストランで昼食を一緒にし、その後町長が支払い、それではと言われ体よく返されました、固い町長です。」とのことでした。こうした姿勢は大切です。

建築測量とスケッチ

出張のたびに宿泊したホテルの部屋の測量をします。今は赤外線の測定器がありますので、部屋の天井高さや部屋の縦横の寸法を測るのが楽になりました。ホテルの設計の仕事が来れば、参考になります。また、ホテルの部屋は住宅の寝室、老人ホームの個室の設計などの参考になります。これは菊竹清訓先生の事務所に勤務した時、副所長の遠藤さんが自ら描いたさまざまなスケッチを見せていただいたことがきっかけになりました。実は出張時は、ホテルの部屋の測量で深夜数時間かけますので、超多忙です。鉄道車両もすいている時には座席の寸法など測量しスケッチします。上越新幹線MAXトキの2階建て車両で、指定券を持っていましたが、高崎から東京駅までの間、席に座らず階段の寸法を測りました。小住宅の設計の参考になります。ある時、早稲田大学機械科卒のJR東日本の車両整備担当部長氏とお目にかかった際、MAXトキの階段のスケッチを見せたら、「正確ですね」と言われました。怪しい人と思われない程度に採寸作業をしております。

また、建築の視察をした際に、スケッチを描くようにしています。A-1サイズのワトソン紙かワトマン紙に描きますので時間を要します。特に記憶に残った建築物を記録用にスケッチを描いております。絵描きの絵とは全く異なります。いずれ個展をしたいと思っております。

学生さんや若い建築家にお奨めです。