日別アーカイブ: 2016年8月17日

元プロ野球選手豊田氏泰光氏の訃報

8月14日西鉄(現西武)、国鉄(現ヤクルト)で活躍した豊田さんの死亡記事を見ました。中学3年生の昭和38年8月TBSのラジオ放送で「わんぱく選手集まれ」という番組に、知人(千代田区麹町3丁目の町会役員F氏)の紹介で私と友人3人が出ることになりました。ゲストは王さんと豊田さん。事前に、紹介者から、王選手のほうが人気が高いから、王選手ばかりに質問しないようにと注意されました。収録は金曜日の昼、放送は日曜日の巨人・国鉄戦前です。当日、王さんはスランプを理由に欠席、豊田さんお一人の出演となり、我々が豊田さんに質問するという形式で番組が組み立てられました。提供は「ママビス製菓」。(今でも覚えています)スタジオで会いましたら、豊田さんの大きな体に驚き、端正な顔つきに驚き、紳士的な話し方に驚き、と驚きの連続でした。細かい内容は忘れましたが、話し方がうまく、我々中学生の質問に合わせ、答えてくれました。事前に仲間と質問の打ち合わせをしました。その年豊田さんが西鉄から国鉄に移籍したのでその理由を質問しようと提案したら、友人が「それは失礼だよ」と却下。社会経験を積んだ今、様々な人間関係があったことは推測できます。練習時間について質問しました。「夏場は暑いのでバテますので練習はしません(できません)」との回答でした。豊田さんのお話、サイン(今は行方不明)、スポンサーからのお土産のクッキーを手にわくわくの気持ちでTBSを出ました。豊田さんは引退後は頭脳的な解説で人気がありました。

訃報記事に豊田選手はサインに「栄光は努力」と書いたそうです。また、「だめになった仲間は酒や女で快楽を覚え、一気に堕ちていく。それを見て必死にならざるを得なかった」と記載されています。すばらしい教訓です。中学生の時の思い出の一コマを作ってくださった豊田さんに感謝です。

日本人初金メダル織田幹夫氏の体験談。

日本人初の金メダルは1932年アムステルダム大会で織田幹夫の三段跳び。早稲田大学に入学した時必修一般教養でとった保健体育の教授が織田幹夫でした。確か朝8時20分からの授業でした。一番前の席で食らいつきました。物静かに話す授業での保健体育の理論は忘れましたが、織田教授の自らの体験談は未だに覚えています。織田教授が学生時代、陸上部員だった時の体験談。「だれよりも早くフィールドに出てグランド均しをし、練習終了後またグランド均しをした。」メルボルンオリンピックの時、朝日新聞の特派員として現地で取材した時の体験談。「一人で様々な試合を取材、その後原稿を書き、東京に打電。午前3時ころまでホテルで仕事し、洗濯をし、短時間睡眠の後、また朝から取材」。一人で何役もこなすエネルギッシュな活動ぶりは大変刺激となりました。少しでも真似してやろうと思いますが、なかなかうまくゆきません。建築学科の学生でしたが、すばらしい指導者の話が聞けたと感謝です。

1964年東京オリンピック体操競技ウルトラCのネイミング

体操競技の難度は今やF、G…。1964年の東京オリンピックの体操の審査員金子氏は私の高校の時の体育の先生。金子先生から聞いた話です。当時は技の難度はA、B、Cの3段階。これでは強敵ソ連チームに勝てないので難度Cを超える技でソ連チームに対抗しようとのことで「ウルトラC」とネイミング。頑張ったそうです。今やウルトラCははるか昔の言葉となりましたが、言葉の生まれたいきさつの説明です。リオオリンピックで様々な技が生み出されました。技の難度がどこまで進むのか楽しみです。今振り返るとすばらしい先生に指導受けたのだなーと改めて実感。当時15歳の若造には先生の立場、価値を全く理解できませんでした。