日別アーカイブ: 2016年8月25日

フルブライト留学生試験合格のための大作戦

1974年念願叶いフルブライト留学生としてヒューストンにあるライス大学建築大学院に留学しました。振り返りますと大作戦が見事実現したといえます。何かの試験に挑戦する後輩にお奨めの作戦です。さらには様々な挑戦に活用できます。

1ドル360円、日本の大卒初任給が4万円の時代、アメリカに行くだけでも、航空運賃は手が届かない額でした。大学の学費も日本の大学学費の数倍で一般の日本人の経済力では支払える額ではありません。奨学金、できればフルブライト奨学金をいただきアメリカに留学したいと18歳早稲田大学に入学した時から、私にとり大きな夢、不可能と思われる夢を抱きました。試験でとにかくある集団の中で一番にならないといけない、自分には特別な能力がないと自覚しており、ただ、ひたすら努力を重ねるしかないと思いました。

私が考えた大作戦です。審査員に評価いただくためには何か特別な実績が必要と思いました。予行演習的な留学、自分の専門の建築学会に論文を寄稿したり、できれば何かの賞をいただければ立派な評価材料にもなると考えました。①留学の実績です。1969年早稲田大学の交換留学の試験に合格、アメリカに1年間留学することになりました。また、1971年スウェーデンに技術研修留学することになりました。2度の(予行演習的な)留学は実績として審査員に相当アッピールできると思いました。それぞれの留学先の指導者から好意的なフルブライト受験に際しての推薦状をいただきました。②論文の実績です。早稲田大学大学院在学中、指導教官穂積教授の助言で日本建築学会に論文を3度提出しました。内容の良しあしは別として審査員へのアッピール材料になりました。③受賞実績。②と同様指導教官の助言で、日本建築学会の設計競技に参加、修士1年生、修士2年生の時、それぞれ受賞しました。早稲田大学の建築学科のデザイン専攻の学生はデザイン競技への参加は必須でしたが、早稲田大学では私だけが入賞、しかも、2年連続入賞しました。偶然はその時の学会の関東支部長は早稲田の安東教授、学会長も早稲田の吉阪教授。お二人の署名のある賞状を頂き名誉でした。お二人の教授からのお褒めの言葉をいただきました。④フルブライト受験の前にすでにライス大学建築大学院の学科長から入学合格の通知をいただいておりました。ライス大学建築大学院に留学したいと私の経歴、実績を同封し郵送したらあなたを受け入れますと返事をいただきました。日本の大学と異なり、手続きが弾力的なのは驚きですし、日本の大学もいずれ参考にしなければなりません。大勢の受験者の中で、大学院の合格通知をもらっている志願者は私以外におそらくいないと思います。また、多くの受験者は留学先の希望として所謂著名大学の名を挙げたと思います。私は様々な理由を挙げ、ライス大学の希望をアッピールしました。

上記の①、②、③、④の実績をアッピールし、後日、無事、見事、首席で合格通知をいただきました。その中には、フルブライト委員会としてハーヴァード大学、コロンビア大学、k-ネル大学の3大学の推薦リストが記載されていました。が、初志貫徹でライス大学にしました。後で漏れ伝わった審査評ですが、5人の審査員全員一致の結果だったようです。

結果論ですが、大作戦が当たりました。作戦を立て、6年かけ私の夢を実現しました。私にとり4年間毎日12時間の訓練を続け、オリンピックでメダルを取ったような心境です。大きな夢を持ち、ひたすら頑張り、夢を実現することは大切です。若い方に大きな夢を持っていただきたいと念じております。一方で人の夢にケチをつける嫌がらせには断固反発。夢を描けない、夢を持てない不幸な輩がいます。

森ビル元社長森稔氏、大きな夢と高い教養をもった方。

森ビルは港区内の不動産開発会社、世界的に有名な企業ですが、いわば地場産業です。森社長と最初にお目にかかったのは区長に就任する前の平成10年、森ビルが主催するアーク都市塾のワークショップ後の食事会の時でした。私は恩師のアーク都市塾講師菊竹清訓先生の助手という立場でした。テーブルに先に座っていると、森稔社長が現れ、私の隣が開いていたので私の隣に座りました。私は挨拶をし、オフィスのインテリア(私は1971年スウェーデンでオフィスインテリアの研究をしましたので)執務空間の快適性の話題、欧米の都市開発の話題(私は20代の時から欧米の都市開発事例を見ています、また理論的な研究もしました)をネタにし、森社長と会話をし、話が盛り上がりました。また、当時、私は港区の都市計画審議会委員や超高層問題研究会会長を務めておりましたので、そうした話題についても意見交換をし、話が盛り上がりました。

平成12年6月区長に就任し、時々お目にかかる機会がありました。私の立場からするとウマが合いました。私は欧米で勉強したので、社交は欧米流好みです。つまり、夫婦同伴、家族同伴です。欧米の社交では日本のような料亭やナイトクラブでの接待でなく、自宅でのホームパーティなど家族ぐるみが主体です。また、大使や大臣、CIA長官人事承認の連邦議会聴聞会でも本人以外に両脇に妻や子供を陪席させ、国会議員やマスコミに家族の姿を見せるのが慣例です。森稔社長との交流の際は夫婦同士で、ある時は森社長のお子さんも(立派な社会人ですが)同席し意見交換をしました。奥さまは英語を流暢にお話になり、私の妻は若い時同時通訳をしておりましたので英語を話し、特に大使など外国人と一緒の交流会では英語で会話し、文化、芸術、建築、都市開発などをテーマに意見交換をしました。大手の不動産会社と異なり、地べたを這うように長時間かけ権利者を説得し、再開発事業を実現する忍耐力には敬服です。六本木ヒルズでは最も高い賃料を稼ぐことができる最上階に美術館を配置したのは森社長の文化、芸術に対する高い見識の結果と思います。森社長は高い教養と大きな夢と理想を持った方でした。

私のアメリカでの指導教官は当時ハーヴァード大学大学院長のピーター・ロウ氏、修士号審査教授はMIT大学院長のアデール・サントス女史です。例えて言うと、東大の教授たちが教えを乞いたいと研究員などの肩書で研究留学する相手ですので、森稔社長も私の都市開発、建築デザインの知識の対してはある種の信頼感を持って下さったことと思います。また、私は森社長に対し政治資金パーティ券を押し売りするわけでもなく、付き合いやすい人物と思ってくださったと思います。 今後の森ビルの事業展開に期待しております。

港区長秘話ーその41 困った筆耕

平成12年6月就任し翌年の3月の年度末、退職の辞令交付があります。私は筆、墨で直筆の署名を書かなければなりません。英語のサインなら得意ですが。お習字は小中学校の時、少し習っただけです。その後筆で署名をする機会はほとんどありませんでした。区長机、自宅の机に新聞紙を敷き、何度も「原田敬美」と縦書きで練習しました。「個性」的な署名で勘弁していただこうと芸術的?、個性的な署名を和紙に書き秘書に渡しました。もしかして希少価値が生まれるかもしれません。

後年、平成24年私が主催者として天皇皇后両陛下をお迎えしレセプションを開催しました。慣例に従い、事後皇居に伺い両陛下に行幸啓御礼の記帳をしました。和綴じの立派な和紙に墨と筆でお礼の短文を書きましたが、上記のとおり、筆で書く経験は全くないものですから、上手い下手ではなく、ただひたすら心を込めて書くしかありませんでした。筆書きも若い時習っておけばよかったと反省しきりです。