月別アーカイブ: 2016年9月

オリンピック裏話、パイオニアから聞いた話

熱いリオオリンピック、パラリンピックが終わりました。そのたびに高校、大学時代にすばらしい指導者から聞いた話を思い出します。1964年東京オリンピックの時、私は高校1年。体育の講師はK先生。小柄で筋肉質、謹厳実直な雰囲気でした。体操の専門家です。ヘルシンキオリンピックの時日本体操チーム監督でした。昔話を語りました。当時は日本は陸上、水泳全盛時代。強豪チームには現地で日本食の差し入れがありました。しかし注目されていない体操チームには差し入れが回ってきません。若手、小野喬はホームシックにかかりました。みそ汁を飲みたい。みそ汁を飲めない悔しさがその後の成長に影響を与えたのでしょう。

1964年東京オリンピックに向けての体操チームの戦略。当時体操の技術はA,B,C難度と3段階。C技術だけでは強豪ソ連チームに勝てない。Cを超える技、すなわちウルトラCの技術を見せなければならない。K氏が「ウルトラC」という言葉を創作したそうです。結果日本体操チームは金メダルを獲得しました。

K氏は東京オリンピックで体操の審判員を務めました。ニュースで見ました。あん馬の試合で優勝候補遠藤があん馬にお尻をつけてしましました。ところが遠藤は優勝、金メダル。後でK氏曰く、優勝は遠藤に決まっていた、と。強豪ソ連チームは開催国日本に政治的配慮をしたのか?でも素晴らしい日本チームの活躍でした。体操王国日本は現在まで引き継がれています。

高校時代の特別講義で1932年ロサンジェルス・オリンピック大会で初めて体操選手として出場した本間氏の話を聞きました。体操のGymnasiticsを翻訳で「体操」と訳され選手団に渡されました。H氏は翻訳を見て「ラジオ体操を美しく演じればよい」と思いました。試合場でラジオ体操を演じ、観客から失笑が聞こえたそうです。競技の体操とは全く異なります。映像もない、その時代の翻訳のむずかしさです。

早稲田大学入学し一般教養で体育の授業4コマを取らなければなりません。一つは保健体育で織田幹雄氏の授業を取りました。氏は1928年アムステルダム大会で三段跳びで金メダル。日本人初の金メダリストです。語り口は静か。「学生時代、陸上部に籍を置きました。誰より早く競技場に来てグランド均し。誰よりも遅くまで練習。最後のグランド均し。」気持ちが大切と思いました。後年、メルボルン大会では朝日新聞社の特派員として取材。「当時ですから日本全体が貧しく、スタッフがいない中、一人ですべてをこなしました。取材、原稿執筆、送信、ホテルで自分の衣服の洗濯、寝るのは午前2時3時でした。」凄い根性と思いました。

昔のオリンピックを経験した方々のお話を直接聞けたのは、今となっては幸せな学生時代でした。勇気をいただきました。

港区長秘話その51、横領事件の水面下の処理、驚き!

ある時U助役が「出先の責任者が300万円横領しました。返金させて上で退職させました。」と私に報告しました。政策経営部長、人事課長(現区長)と相談の上の決定でしょう。事前に原田区長に報告し、相談すると、厳しく指摘され、監督者など含め厳しい処分がされると思ったのでしょう。すべて決着しての報告でした。不祥事は全て公開し、規則にのっとり処分をしなければなりません。この報告にあっけにとられました。幹部役人の狡さの一側面です。監督者の厳しい目、指導、厳格な監査制度が必要です。適切な公金の扱い方をしなければなりません。形式的でなく実質的な仕組みが必要です。

JAL,国鉄の破綻の原因

1987年(昭和62年)国鉄は破たん、分割民営化されました。2010年JALは破たんしました。双方とも理由はガバナンスの欠如と社員の常軌を逸した傲慢さです。社長は自分が社長の時は波風立てないようにとお客様のことや経営のことを二の次三の次。社員も世間の常識から外れた労働条件での仕事ぶりでした。今JRの駅の切符売り場では高級ホテル並みの接客で丁寧に応対しています。国鉄時代は切符を売ってやるという態度でした。利用客無視の頻繁なスト。国鉄の事業利権に巣食う国鉄単価と言われる調達価格。

1990年代アメリカでメジャーなコンティネンタル航空に乗り、機内誌を読んで驚きました。キャビンアテンダント募集自給14ドル(1400円)。それがキャビンアテンダントの国際相場です。JALのキャビンアテンダントは40歳高卒で年収1000万。しかもタクシー通勤。パイロットに至っては国際線で週一回の勤務で年収3000万から4000万円。しかもハイヤー通勤。殿様商売。年収1000万円のキャビンアテンダント、年収3000万円パイロットの労働貴族が賃上げストで乗客無視のストを頻繁に実施。私のような経営のど素人でもいずれは破たんすると思いました。外国ではパイロットは週3回の勤務で年収1000万。しかもJALには組合が7つもあります。飛行機の入り口でいらっしゃいませの笑顔のキャビンアテンダント。実は、尻の毛までむしりとるぞとばかりの金の亡者の吸血鬼まがいと言ってもいいでしょう。当時のキャビンアテンダントの組合の一つの委員長の飯田さんという方に上記のような内容で投書しました。返事は来ません。

JALの幹部から聞いた話。JALのバランスシートが最もよかったのは1970年代。長い間、がん細胞のごとく、社員がJALの財産を食いつぶしてきたということです。また、社員とのトラブルを恐れ適切な労働条件を整備してこなかった運輸省天下りのデタラメ社長はじめ経営陣の無責任さも大きな原因です。

どの組織であっても、経営は真剣勝負、社員はお客様のため、社会のため、株主のため(もちろん家族のため)に、常識的に、誠実に働くことが必要です。

アメリカの大学のランキング

アメリカの代表的な週刊誌USNews&Worldが毎年大学ランキングを発表しています。今年も発表がありましたとワシントンポストの9月13日の記事。公立、私立(アメリカは私立が圧倒的に多いです)併せてです。1プリンストン、2ハーヴァード、3シカゴ、イエール、(同列)5コロンビア、スタンフォード、(同列) 7マサチュセッツ工科大学、8デューク、ペンシルヴェニア(同列)10ジョンホプキンス、11ダートマス、12カリフォルニア工科大、ノースウェスタン(同列)、14ブラウン、15コーネル、ライス、ノートルダム、ヴァンダービルト(同列)、19セントルイス、ワシントン大学、20エモリ-、ジョージタウン、カリフォルニア大学バークレイ校、(同列)、23南カリフォルニア大学、24カーネギーメロン大学、カリフォルニア大学ロサンジェルス校、ヴァージニア大学(同列)と記載されています。アメリカは何でもランキングをするのが好きな国です。そういう文化です。ランキングによる査定が厳しいです。評価項目は不明です。私の留学したライスは4000人の小規模な総合大学。恐らく小規模大学という範疇にすると、トップになると思います。

日本では考えられませんが、音楽部、宇宙工学部(当初の人工衛星の飛行士はライス大学の出身者が多かったと聞いております)、ビジネススクール、公共政策部、建築学部など様々な学部学科があります。

 

ニューヨーク市のテロ事件、市長の存在感

9月17日ニューヨーク・マンハッタンのチェルシー地区でテロ事件がありました。日本のテレビや新聞報道、CNN報道(毎日見ております)を見ていると、デ・ブラシオ市長が記者会見に出て、事件の状況、市長としての見解を頻繁に述べています。日本では大事件があっても市長の存在感はゼロです。アメリカは自治体警察です。ニューヨーク市役所の中に警察部があります。警察の指揮官は市長です。ですから、社会的に注目される事件が発生すると直ちに市長が記者会見をし、事実を市長が発表します。市民も事実を知り、市長の姿勢を理解します。

日本では警察発表(最高幹部でなく実務担当者)を聴くだけです。また、本部長などの幹部は滅多に市民、県民の前に現れません。文化の違いのなせる業です。もし、日本の市長がアメリカの市役所のように警察を指揮監督するとなると、私の経験に基づくと、不正、利権の巣となったり、下手するとやくざの親分が市長となり警察を指揮するようなことになる恐れがあります。まだまだ日本の地方自治は遅れています。

新宿区、路上看板除去条例に思う、かつて港区が先行実施

新宿区が9月議会で「23区初路上看板撤去条例」を提出するとのことです。すばらしい挑戦です。私が港区長時代、路上の違法看板の撤去を港区の独自判断で実施しました。今はしていないでしょう。当時、警視庁から出向のS生活安全担当課長が「繁華街の路上看板は問題です。警視庁に照会したら、路上看板撤去は専有物離脱横領罪に該当しないだろうという判断をもらった。障害者含め歩行者にとり大変な迷惑であり、また、繁華街の環境維持の観点からも問題なので、土木課と連携し違法看板を撤去したい」と報告提案を受け、私は了解しました。そういう点で、港区は路上看板撤去について先行実施しました。その後、東京都の建設事務所から港区役所に電話がありました。「港区さん、すいませんが、ついでに都道上の路上看板も撤去していただけますか」ということで、都道上の違法看板も撤去しました。すると、今度は国道事務所から港区役所に電話があり、「港区さん、すいませんが、ついでに国道上の路上看板も撤去していただけますか」となり、国道上の違法看板も撤去しました。

私の区長時代、警視庁警察官を生活安全担当、危機管理担当課長として採用、これは都内、おそらく日本初、そして、都内初、おそらく日本初の生活安全条例を制定し、生活安全対策の先陣を切りました。今や、新宿区や豊島区が生活安全分野で先行しています。有名な繁華街を抱えた港区役所どうした?!

中央区明石小保存問題と建築学会、東京建築士会の対応方法の問題

2010年平成22年夏のことです。中央区立明石小学校が建て替えのため解体工事に着手されました。その前日、建築学会長S氏、東京建築士会長M氏の名前で、解体工事反対の声明が出されました。私は建築家、技術者の専門団体が、社会の発展のため、自らの専門家の地位確立のため、公正な契約推進のため、適切な建築設計者選定方法確立のため、政治的発言を大いにすべきという立場です。

しかし、本件については問題でした。①タイミングの問題です。行政手続きが進んでその最終段階で反対と声明を出すことは問題です。②保存、解体建替えと両論あります。いずれの選択にせよ苦渋の選択だったと思います。そうした中、一方の立場に与し、区長や区政の立場を苦しくするのは専門家のすべきことではありません。③学会長、東京建築士会長は行政手続きについて無知です。公共工事はある時突然着手するものではありません。行政は3年後、5年後を見据えて基本計画、実施計画を作成、議会や区民、専門家と意見交換をし、公式決定します。秋予算案を作成、2月の議会の予算委員会で予算一つ一つについてその妥当性、必要性などについて質疑をします。予算委員会で案が承認され、本会議で再度議論し、採決承認されます。もし、解体、建て替え反対で保全をすべきと主張するなら、基本計画、実施計画策定時、あるいはその前から学会として、建築士会として意見表明をし、継続的に保存活動をすべきでした。

今後、こうした問題が繰り返されると思います。専門家団体は、タイミング、手続きを間違えないで様々建設的な政策提言をしていただきたいと期待します。

港区ふれあい文化財団のコミュニティカレッジ、誤用です。

港区ふれあい文化財団のお知らせに「コミュニティカレッジ」がありました。誤用です。コミュニティカレッジはアメリカで公立2年制の短期大学で、職業専門知識や一般教養を学ぶ学校の意味です。コミュニティカレッジについて私は毎日新聞の1978年11月11日と1980年6月10日の論説記事に2度寄稿しました。港区在住のアメリカ人が、もし、多少日本語がわかり、港区ふれあい文化財団の広報を見て応募してきたら大問題になります。用語の初歩的ミスは絶対あってはなりません。幹部も職員もそうした専門用語を知らず、何となく語呂が良いので使ったのでしょう。しっかり勉強してほしいです。港区に住むアメリカ人が港区の国際化対応政策について不十分と声を聴きます。氏曰く、外国人が住む港区ですが、結局職員の意識は、外国人がいない地方都市の自治体となんら変わらないのではと指摘がありました。理事長N氏の知識不足でもあります。

港区長秘話50、新橋福祉施設PFI(民活)プロポーザルの裏話

私の港区長時代、財政難で公共事業は基本的にゼロ。施設整備は進めなければなりませんので民活(PFI)で建設しました。新橋6丁目施設です。特養と障害者の生活施設です。建設費41億円です。事業者の選定は総合評価方式としました。公募制とし、全国の社会福祉法人に関心を持っていただきました。1次選考は書類選考、2次選考は責任者に対するヒアリングです。1次選考で22社(うち1社は辞退)から5,6社に絞り後は面接による合否判定です。公正に選考作業をすることを区長自ら指示しました。助役が審査委員長で、様々な専門分野の専門家を委員に委嘱しました。区の審査委員は関係部長です。毎回審査員の発言録を区長自ら確認しました。審査員が公正な発言をしているか。

困ったことが伝えられました。地元の有力者が元区長を理事長に担ぎ上げ、俄か法人P社を設立し、応募しました。N部長によると、その組織が提出した提案書の評価は低かったが武士の情けで一次審査を通過させることにしたとのことです。そのP法人の首謀者は一次審査に通過したことで、後は原田区長の政治力で自分の案が当選すると勝手に思ったようです。公正な審査の結果は提案が素晴らしかった某法人、つまり現在の施設運営をしている法人です。するとその方は「区長は利権屋で、地方都市を基盤とする社会福祉法人を選んだ」と事実と異なる理由で逆恨みしました。真面目に真剣に審査せよとの指示で逆恨みされるのですから。逆に以前はいい加減な審査があったのかもしれまないと感じました。

熊本被災地視察、早期の復興をお祈りします

9月7日熊本県の被災地を視察しました。仕事仲間H氏が熊本出身で、インタビュー相手を紹介してもらい、また、従兄がタクシー運転手なので1日チャーターしました。熊本市内に住んでいる元建設省官僚、元熊本県庁職員、地元経済人、まちづくり建築の専門家、元熊本大学教授(実は私の先輩)にヒアリングしました。また、地元の有力紙熊本日日新聞記者にもインタビューしました。

熊本は内閣府の想定で、東南海地震が発生した際の支援拠点と位置付けられ、大地震の確率の低い地域と指定されていました。台風や水害の訓練を相当重ねていますが、震災訓練はしていませんでした。震災が来るという意識はゼロだったそうです。震災対策が課題です。次に、前震(マグにチュード6.5)、本震(マグニチュード7.3)と大地震が何回も生じたことです。前震がおさまり、自宅に戻りどのように復旧しようかと考えている時に本震が生じ、それで被害が拡大しました。繰り返し地震にいかに対応するかが課題です。避難所の体育館などの天井材が崩落し、体育館が使えなくなりました。外の駐車場で避難生活を続けました。天井材などの非構造材の耐震化が課題です。リーダーがしっかりし、職員がしっかりしている地域、リーダーがしっかりしている町会は地震対応がしっかりしていたそうです。地域の人間関係の構築が課題です。

宇土市庁舎は破壊され、隣接地にプレファブの仮庁舎を建設し行政サービスを継続しています。震源地の益城町は庁舎は外観上問題ありませんが相当な被害を受け、庁舎は職員だけが仕事し一般町民は立ち入り禁止、隣接地にプレファブ庁舎を建て町民サービスをしています。益城町のある特定の地域の木造住宅は相当程度倒壊していました。あるラインで倒壊を免れた住宅地域があります。地盤の違いでしょうか。熊本のシンボルである熊本城は天守閣の瓦が崩落、棟木が露出していました。また、石垣の一部が崩落していました。

熊本の早い復興をお祈りするとともに、熊本被災の課題をきちんと検証し今後の震災対策に生かす必要があります。