月別アーカイブ: 2016年10月

港区長秘話54、戦略事業推進室の設置

平成14年港区役所に戦略事業推進室という組織ができました。(作りました)具体的にだれが考えたのか聞きそびれてしまいました。すばらしいアイデアです。新たに警視庁から迎え入れた生活安全、危機管理担当の警視S氏の受け入れ場としました。また、新たな子育て政策などの担当も、保育課とは別に戦略事業推進室で担当しました。とにかく従来の業務に当てはまらない仕事を担当させました。役所らしからぬ?ネイミングであり、ユニークな役割を持つ組織でした。民間の組織以上に面白い組織を作りました。

話変わり、退任後ある会合で私は「戦略的に」という言葉をよく使いました。するとある方が「戦略」なんて会社の営業的な用語だからいかがなものかとコメントをいただきました。港区役所で戦略室という組織を作りました、また、東大の医学部にもそうした組織がありますよ、と説明しました。民間人の中に新しい用語に反発する方がいるのには驚きました。

伊藤延男先生を偲ぶ会、日本建築史の大家。

先日、茨城県土浦市の霞月楼という料理屋で日本建築研究会という勉強会が主催し、日本建築史の大家、伊藤延男先生を偲ぶ会が開催されました。伊藤先生は会の顧問。私は副会長。日本建築研究会は35年ほど前設立。大工、左官屋、瓦屋など職人や建築設計者など様々な職業の方が会員です。伊藤延男先生は時代が平成に変わった頃から勉強会の講師としてご指導をいただきました。また、途中から顧問をお勤めいただきました。平成18年、文化財保護分野で日本で初めて文化功労者として顕彰されました。

文化財研究所所長をお勤めになり、その後神戸芸工大教授をお勤めになり、さらにはICOMOSの役員をお勤めになり国際的な文化財保護活動にも関与されました。その功績で平成23年にガッゾーラ賞を授与されました。伝統建築見学旅行にいつも参加、伊藤先生の深い見識に基づく解説をしていただきました。伊藤先生は80代後半で足腰が多少不自由でしたが、エレベーターのない私の事務所にも手すりにつかまりながら4階まで階段を上ってきました。「京都の道路幅員が豊臣時代の都市計画と異なるのではないかとの仮説に立って、伊藤先生は課題意識を述べられ、その内一緒に調査をしましょうとご提案をいただきました。実際ある時伊藤先生と京都へご一緒させていただき、ある道路幅員を測量しましたらところ、伊藤先生の仮説がどうもただしそうだとなりました。ではその内本格的な調査をしましょうと言っていた時、お亡くなりになり、調査にご一緒できず残念です。そのほか、茶室、茶会の研究、仏教寺院の見方の講義など様々なことを教えていただきました。建築活動では伊藤先生は私にとり異分野の先生ですが、90歳近くになってもいくつかの研究テーマを抱え忙しく活動されておりました。

伊藤先生はご高齢になってからお茶のお勉強を始められたそうです。また、お茶碗も自ら作りました。伊藤先生の自作のお茶碗を頂戴し大切に保管しております。ただし箱書きを頂きそびれてしまいました。

ノーベル賞受賞者の変化に富む経歴、日本の研究者はタコツボ・直線型

ノーベル賞発表の季節。生理学、医学賞で日本人、東京工業大学栄誉教授大隈さんが受賞され嬉しいことです。ノーベル賞受賞者の発表で、それぞれの受賞者の略歴を見て、日本の一般的な研究者の経歴と異なることがわかります。日本の研究者は同じ大学を卒業、そのまま助手を経て同じ大学の教授に。つまり、世間、付き合いが狭いのです。諸外国の研究者、たとえば今年のノーベル物理学賞のサウレス氏はコーネル大卒、ワシントン大学教授、ホールデン氏はケンブリッジ大卒、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授、その後プリンストン大学教授、コスタリッツ氏はオックスフォード大卒、バーミンガム大教授、、その後アメリカ、ブラウン大学教授。幅広い経験をし視野も広いと思います。それぞれの大学に移籍する際、厳しい競争原理で就任しているはずです。日本では、東大卒、東大教授、あるいは、早稲田卒、早稲田大学教授、という経歴が一般的です。同じ大学、同じ同僚、先輩、後輩しか知りません。結果、視野が狭くなります。競争原理は働きません。研究体制は欧米型にすべきです。20年前東京都から依頼され(港区長に就任前)某研究組織をアメリカ型に変える作業をお手伝いしました。成功しました。

番匠設計、小町和義氏の自作紹介の講義

先日、番匠設計の小町和義氏の講演を日本建築研究会で聴きました。氏は90歳ですが足腰、声もしっかりし年齢よりもはるかに若く感じられます。氏の祖父、先祖は高尾山薬王院の棟梁。氏は若い時は昼仕事をし夜間学校、現工学院大学に通い勉強しました。特に戦後、多摩地区を中心に寺院や伝統的様式で住宅の設計をしました。伝統様式を基本としつつもシェル構造などを活用し新たな様式の寺院を設計しました。こうした創作活動は見習うべきです。また、法隆寺や薬師寺のお抱え大工で著名な西山棟梁の所へ出向き自分で設計した寺の施工を依頼し、東日本で唯一の西山棟梁に仕事を実現させました。交渉力、積極的な活動も見習うべき内容です。90歳の建築家からたくさんのエネルギーをいただきました。

港区長秘話その53 すばらしい成果を出した職員紹介

区長就任後直ちに着手した問題の一つは麻布十番公共駐車場の経営再建問題。公共駐車場を担当する土木担当課長は直ちに法律の専門家、駐車場経営の専門家などに依頼し研究会を設置、経営再建案を短期間でまとめ、直ちに実行しました。もっとも議会で一度与党の消極的態度で承認されず、次の議会まで承認を待たなければならない状態でした。提言をすぐ実行し、駐車場経営を黒字化しました。難しい経営問題、政治問題を担当課がよく短期間で解決の道筋を検討し、整理してくれたと今でも感謝、評価しています。

福祉部門の職員。介護保険の問題点を整理し、介護保険白書として手作りの報告書を作成しました。日本初の介護保険白書です。職員ががんばりました。港区の成果として「日本初の介護保険白書を作りました」とPRさせていただきましたが、職員自ら頑張った成果です。多くのメディアに取り上げていただきました。担当職員が厚労省に届けに行きました。しばらくして厚労省の課長がヒアリングに港区に来訪されました。インパクトの大きさに私自身が驚きました。介護保険白書を厚労省に持参する際、職員から「区長自ら届けに行きませんか」と水を向けられました。区長が中央官庁相手にそういう行動をしてよいかどうか私はそれこそ前例を承知していませんのでU助役に意見を求めました。U助役は「区長自ら行く必要なし。」という意見。それに従うことにしました。その後の動き(メディアでの取り上げ方、厚労省の課長が関心を持ち港区長室に来訪されたことなど)を勘案すると、区長自ら厚労省に白書を持参説明すべきだったと反省。またもや助役の助言は的外れでした。

港区長秘話その52、談合摘発へのプレッシャー

港区では官製談合がありました。ベテラン議員主導の官製談合です。私は談合撲滅を一人でやりました。助役も部長もかかわりたくないとのスタンスで消極的(ときには積極的に)官製談合に協力。そのベテラン議員から「原田区長はS元区長の後継者なのだから契約も従来通りやってくれ」と圧力。S元区長は「区長の仕事は福祉、教育だけやっていればよい」、某議員も同じような発言。友人の一級建築士T氏(後年港区教育委員)は区長室まで入って「原田さん談合を厳しく追及しないでほしい」と陳情?。氏の父親は港区の建築事務所協会支部長。父親から依頼があったのか。T氏は私より年齢が数年若く、かつ私のほうがキャリアが上、かつ区長である私に横柄な態度でお説教調。このような人物が現在港区役所で重要な公職を務めているのは驚き。一つ一つプレッシャーをはねのけました。U助役、N政策経営部長は全く無力、無能。区長は福祉と教育だけしてればよいの発言に対しては「私は福祉の本を書き、福祉の論文を書き、また、教育の論文も書き、私は福祉、教育の専門家です」と発言。恐らく全国の市長で福祉の専門書や教育の専門論文を書いた方はほとんどいないでしょう。とりわけ英語教育について私は一家言持っています。

ボッタクリバー並み見積書、スーパーゼネコンのなせる業、1億が1850万円!

数年前、友人からスーパーゼネコンX社から出された追加見積書がおかしいのでチェックしてほしいと依頼がありました。氏は東大医学部卒の優秀な仲間。お父上の後をついで個人病院を経営。病院を移転、新築しました。工事を超大手のX社に依頼。約5億円の工事費。東京都から補助金が出るので公共工事と同様競争入札が義務付けられています。X社は安値で受注し、後で追加請求で儲けようという考えだったのでしょう。この手の契約方法はままありますので気を付けたほうが良いです。良心的な専門家のチェックが必要です。案の定、竣工間際1億円の追加見積書が出されました。私がチェック依頼をされました。一目見た瞬間に不自然さを感じました。50ページ程度の追加見積書をチェックするのに10日程度欲しい(10日分の専門家の報酬100万プラスアルファ)と申し上げ了解いただき作業開始。年末年始を挟むあわただしい時期でした。チェックしていくと不自然だらけ。最悪の場合、裁判で争うことも前提に丁寧な鑑定書を作成しました。なんと1億円の見積書が2000万円となりました。!!!私は実印を押し、氏に手渡し。X社との交渉、場合により裁判になった場合この鑑定書は間違いなく証拠資料として使えると伝えました。氏は自らX社と交渉すると発言、私の鑑定書を持って交渉しました。最終的に1850万円の追加請求となりました。氏はX社にカンカンでした。ボッタクリバーと同じだ!と。

港区長時代、自ら積算書をチェックし、スポーツセンタープール棟工事で2000万円減額させました。また、赤坂特養工事では30億円を3億円減額させました。港区の施設課はチェックする気なし。結論、第三者チェックの重要性。大手設計事務所、大手建設会社など信用せず、原田敬美さんを信用しなさいということです。自己PRですいません。世の中、知名度、会社の規模だけで判断する場合があります。要は中身です。

後日談。チェック作業で1億円のうち8000万円減額となりました。私の顧問税理士は本来、成功報酬で1割程度つまり800万円もらってよかったのではとの見解。まさか8000万円も減額になるとは私自身想像していませんでした。また、病院長に最初から原田敬美に設計監理を依頼していればこうしたトラブルはなかったのにと伝えたところ、次回は原田さんに設計をお願いしますとのこと、しかし、次回は50年先、確実にお互いこの世にいません。

暴力団も国際化?行政や警察は後塵を拝している?

海外の偽造カードを使いATMで2時間で18億円が引き出されました。暴力団が海外の犯罪組織と手を組んでの盗みです。日本の暴力団が海外の犯罪組織と連携を組む、すなわち、英語?を話、交渉をし、契約?をしているわけです。暴力団も国際化という点で、相当進化しているようです。

ところで、行政や警察は大丈夫か?と考えてしまいます。私の区長時代、100人近い幹部は英語力ゼロ。恐らく現在もでしょう。港区では外国人が区民の1割を占め、税金を2割納めています。区長や三役は率先し英語を勉強すべきでしょう。また、国際事情を勉強すべきでしょう。勉強しようという意識がないのは残念。警察も同様です。外国人住民や外国人来訪者が多い麻布警察署で、幹部で英語を話す(話すというのは片言という意味ではありません。流暢にという意味です)方はいないでしょう。英語を話そう、他の外国語を話そうと意識して勉強する必要があります。たとえ話で、北海道や九州の外国人がいない地域の警察署ではないのですから。そういう意識のある幹部を育て、効果的に幹部の人事配置をすべきでしょう。国際化という点で行政や警察幹部が暴力団より後塵を拝する状態ではいけません。

早稲田大学からNo Response、傲慢?

国際会議などで海外の大学を訪問し、興味深い状況を目撃したり資料を入手すると、参考にと思い総長あてに郵送します。しかし一切返事はありません。別の言い方をすると無愛想です。ご多忙な総長が私ごときの手紙を読んでくれるとは思いませんが、礼儀として秘書担当幹部が読んで、「情報提供ありがとうございました」程度の回答は社会的礼儀としてすべきでしょう。欧米の大学、市役所、会社など照会、投書をすると必ず返事が来ます。私が港区長時代、区役所への投書は自ら原案を作成、広報課長(秘書課長)に回答させました。そういう点で早稲田大学の広報体制、社会との接点での対応は全く非常識です。テレビや新聞などで、事件が生じると偉そうにお説教まがいのコメントをする教授がいますが、自分の組織がめちゃくちゃです。それを分っていないことが問題です。アメリカの二つの大学に留学しました。卒業生に非常に丁重に接してきます。欧米の大学の広報、同窓会活動をもっと学ぶべきです。

過日、サポーター組織の商議員会の定例会で私は出席と回答しているにもかかわらず、私を欠席扱い。後で聞くと単純ミスとのお詫び。組織運営、ガバナンスができていないと感じました。私は個人で、大きな国際会議や皇族をお迎えしてのレセプション、ノーベル賞受賞者をお迎えしての講演会等自ら企画、運営をしました。招待客などミスが生じれば、大問題になります。細心の注意を払い、事務作業を進めました。大きな組織になると、油断、散漫、弛み、が逆に生まれるのでしょう。総長、理事しっかりしてください。

元祖イクメン、父親、

イクメンという言葉が流行しています。男女共同参画社会を構築する上で必要な要素です。振り返りますと私の父は元祖イクメンでした。母から聞いた話。私のおむつの洗濯はかなりの部分父が担当したそうです。お風呂(当時は銭湯)も父親の係り。中学生の頃まで洗濯機はありませんでしたので、洗濯は父親の担当でした。特に日曜日は。母は生花作家。大きな展覧会があると、母が生花の材料を入手するのに手伝い運ぶ担当でした。(当時車は高根の花、車を手配できませんでした)また、母は武蔵野盲人協会で視覚障がい者の外出補助のボランティア活動を40年近くしておりました。ボランティアの日は、父親が自宅で一部家事をしておりました。

また、地方出張の際、小学生だった私を一緒に連れて出ました。大阪、奈良、福井など覚えております。出張先で打ち合わせの際は私をロビーで待たせ、打ち合わせが終わると、近隣を観光(視察)でした。これは、私も真似ました。国際会議の際、子供を連れ、会議中は日本語ガイドの観光バスに子供を乗せ、会議が終わると一緒に行動しました。

今思いますと、父親は元祖イクメンでした。父親は、職場では相当厳しい上司だったようです。たまに日曜日突然自宅を訪れた部下が父親が洗濯している姿を見てびっくりしたようでした。あのおっかない上司を動かす奥さんはどんな上手の人なのかしら…と思ったようです。