月別アーカイブ: 2017年2月

港区長秘話61、トランプ大統領FAKE NEWS(偽ニュース)批判と港区長時代の体験

トランプ大統領はニューヨークタイムズとCNN放送を特にFake News(インチキ報道)と強面に批判しています。私は毎日ニューヨークタイムズを読み、CNNを見ておりますが。港区長時代、新人で人の好い原田に対する偽報道記事がありました。選挙運動の際、朝日新聞は「対立候補は区民団体が選んだ良い候補」、政治記者の署名記事の大きな記事で、相手候補の名前は5回登場、私の名前は1回、しかも私が建築家であるが故、建設業界が推したように受け取れるような内容の記事でした。私への取材はなし。相手候補は朝日新聞の記事をコピー、配布し事前運動していました。区長就任後、当該記者に抗議の手紙を送りました。2週間経過し返事がありません。たまたま朝日新聞のH社長は知り合いでしたので社長に直接報告。すると当該記者が上司に伴われて区長室に来訪。「しばらく出張で、原田さんの手紙に気が付きませんでした」と幼稚園児並みの弁解。私は「一方の側を取材し、私に取材せず記事を書くのは新聞記事作成の原理原則から外れている」と強く抗議しました。

2度目は最後の年の3月の本会議の質疑についての東京新聞の報道です。区長選間際で原田が立候補すると思ったのでしょう、共産党は原田の最初の選挙で政治資金規正法違反があったと質問しました。牽制球のような質問です。ところが東京新聞が共産党区議の発言通りの記事を書きました。これでは共産党の機関紙の赤旗と同じです。私への取材はありません。最初の選挙の時に推薦をいただいた団体名の誤記載でした。事務責任者と推薦団体が勘違いし、公式の登録名を間違えただけの形式的なミスです。読者からすれば「政治資金規正法違反の疑い」と大見出しがあれば「何か不正でもあったか」と驚いたことでしょう。私も驚きました。

次は退任を発表の際の毎日新聞の報道記事でした。「議会と関係が悪く」という種類の報道記事でした。これも私への取材はありませんでした。一方的なスタンスの記事でした。不正を徹底して追及された議員は私に不快の念を持ちました。一方で真面目に活動する議員から支援の声がありました。本当の事情は港区長秘話の1にすでに書きました。毎日新聞の東京支局長に区長室に来ていただき、「私に取材もなく一方的な記事は不適切。私は小学校の時、教科書で新聞は双方の意見を取材し公平公正に記事を書くと習った。当該記事はそうした手続きを経ず、一方の意見のみを書いている間違い記事だ」と抗議しました。すると支局長は逆ギレ。区長の「無礼な」抗議内容を新聞に書きたてると脅しともとれる発言をしました。

私は、かつて毎日新聞に2度論説記事を寄稿しました。朝日新聞に2度論説記事、20件コラムを寄稿しました。そのようなわけで、新聞に親近感を抱いておりましたが、当事者としてFAKE NEWSを体験しました。トランプならずともマスコミは結構いい加減と感じました。

石原元都知事と東京都議会百条委員会、マスコミの狡さ

この春の東京都議会で豊洲移転問題について、百条委員会を設置し石原元都知事を参考人として呼ぶことになりました。私はかつてのロッキード事件で田中元首相をたたいた事件を思い出し、重なりを感じました。田中元首相が絶頂期の時は、マスコミも政治家も田中首相の批判は一切しませんでした。田中氏が失脚し、ロッキード事件で騒がれると一斉におぼれた犬をたたくような田中バッシングが始まりました。マスコミは卑怯です。首相になる前から様々噂があった方ですから、その時に批判、追求記事を書くべきでした。

石原元都知事も同様です。現職の時、週に2度しか出勤しませんでした。1日は記者会見の日ですから実質勤務は週1日。後で知ったわけですが、現職の時一般紙は一切そうした報道しませんでした。また、豊洲への移転についても、現在記憶に残っている批判記事はほとんどなかったような記憶です。ファーストクラスで奥さんや秘書たちを連れ豪遊したことも一般紙での批判がなかったように思います。少なくも問題指摘のキャンペーン的記事はなかったと思います。ところが石原さんが辞めてから問題があぶりだされ、石原さんに批判記事を書くのは卑怯な方法です。石原さんが現職で、エネルギー全開の時に、ガンガン問題指摘をすべきでした。強い権力を持つものを批判できないマスコミはマスコミでありません。私は石原さんと比較し弱者、新人、若造ですからマスコミの攻撃対象になりました。いずれその体験を書きます。

1972年NBC放送特派員のアシスタントの経験、独特の視点のコメント。

先日外国人特派員協会で新年会がありお招きを受けました。昔を思い出しました。1972年アメリカ3大ネットワークの一つのNBC放送東京支局、特派員ジョン・リッチ氏のアシスタントを短期間務めました。支局は港区虎ノ門の旧三和銀行虎ノ門支店から路地を少し入ったところのペンシルビルの5階にありました。私の1969年と1971年と2度の留学経験で友人の紹介で依頼されました。

1972年はニクソン訪中、赤軍派あさま山荘事件、日本人テロリストによるテルアビブ空港乱射事件など重大事件、事故が多発しました。放送局の仕事の一端を垣間見ました。赤軍派のあさま山荘事件に関連し、日本のマスコミはややこしい左翼理論の解説などに重点を置いていました。ある時、ジョン・リッチ氏が生中継でNBCラジオ放送であさま山荘事件の報道、解説をしました。私はたまたま氏のデスクの隣に座っており静かに氏の東京発の報道を聴いていました。私の目の前でオンエア「赤軍派事件のリンチ事件は左翼思想の戦いではなく男女問題である」と黒電話でアメリカに放送している内容を聴き驚きました。後でそれが正解であることがわかりました。ジョン・リッチ氏はニクソン大統領に伴い北京へ訪問。氏から、上海経由で送信される報道内容を東京で一度受信し、それをさらにワシントンに送信するというややっこしい送信業務でした。テレックスという今では使われない送信方法もありました。当時それが最先端の放送技術でした。

当時NHKテレビのニュースは熟年の今福アナウンサーが丁寧に原稿を一言一言読み上げる方式でした。一方アメリカのニュース番組はニュースキャスターが語りかける方法でした。次第に日本のニュースもキャスターによる語りかけ調にに変わりました。NHKのアメリカかぶれと言いましょうか?

技術士仲間、多摩市民H氏逝去。多摩市での工事監査ならず。

先日多摩市民、技術士で大学の先輩H氏が76歳で逝去されました。10年前技術士仲間と自治体の工事監査をする組織を作りました。H氏は精力的に多摩地域と神奈川県東部地域の自治体に工事監査の必要性を説きながら営業活動をしました。多くの自治体が必要性を評価し、工事監査を依頼しました。また、H氏を通して監査の必要性についての講演も依頼されました。H氏は住んでいる多摩市役所で工事監査をぜひやりたいと精力的に営業活動しましたが、無視され続けました。

昨年秋、H氏がセッティングし、多摩市役所で幹部職員や監査局長、数人の市議会議員を集め、工事監査の必要性について私に講義の依頼がありました。講義終了後、某幹部が「ガイドライン通り設計、工事しているから工事監査の必要性ありません」、某幹部「工事監査の効果が不明です」と発言。市議会議員も消極的な意識。私は彼らの監査に対する意識の低さに驚きました。周辺の自治体では熱心に工事監査をしています。H氏は老後の活動を地元の政治、行政ををよりよいものにしたいと地元のため様々ボランティア活動をしてきました。H氏の夢かなわず残念。しかし、こうも意識の低い幹部がいるもんだとあきれるばかりです。

豊島区文化芸術賞を。文化芸術でホットな地域。

昨年、豊島区役所で研修講師を依頼されました。文化芸術都市づくりのための戦略について語りました。豊島区は池袋駅前に民間資本を活用し8つの劇場を建設します。私は「豊島区文化芸術賞」の提案をしました。その賞をきっかけに世界に羽ばたく人材を育てる提案です。その際の基本的考えです。審査方法についてと文化芸術の人材養成の資金的支援についてです。また、劇場都市を支援する都市計画制度です。

オザワセイジ氏は最近の読売新聞のインタビューで「貧乏日本人若手指揮者がパリのコンクールに出場、カラヤン、バーンシュタインが自分の才能を認めてくれた。日本の体制側は親分子分のような体制で問題多い」と日本の芸術文化の体制に批判の発言がありました。欧米の審査ではオザワセイジ、視覚障害のピアニスト辻井さんがテキサスのバンクライバーンコンクールで優勝、ヨーロッパのバレーコンクールで日本人の若手バレリーナが優勝、入賞、斬られ役の脇役俳優がカナダの映画祭で入賞、大きな話題となり、こういう人材がいるのだという再認識をさせられます。ノーベル賞も同様です。日本の審査員は何をしていたのか、何もしない、何もできなかったということです。海外で入賞し、その後日本で評価するのは順番が逆です。芸術文化学術の審査の哲学、基本姿勢の違いを感じます。日本では師匠のお手伝いをし、まねをすることが評価される基本視点です。欧米のコンクールは「いいものはいい」出自、国籍、出身大学、障害に無関係に良いものは良いと評価します。日本は審査員自身、変な自制心があるのか、オーソドックスな方を評価する傾向にあります。後で審査委員自身が「なぜあの人を選んだのか?」と批判されるのが嫌なのでしょう。また、特定の人(たとえば審査員の弟子)を別の理由で評価し、本来の能力を評価する能力がないのでしょう。豊島区文化芸術賞はたとえば東南アジアの若手芸術家を見出し、賞を与え世界に飛び出すきっかけづくりとなるような審査をすべきと提案しました。(日本の体制側の審査員では無理です)

もう一つは資金的支援です。ニューヨークメトロポリタンオペラの歌手の「平均」年収は3000万円、楽団員の「平均」年収は2800万円。スウェーデン留学時代の1971年、スウェーデン政府発行の賃金統計を見て驚きました。20代の俳優、音楽家の月給は一般の給与所得者よりも高額です。文化芸術に対する経済的価値の評価が異なる、また、ユニオン(労働組合)がしっかりしているのでしょう。東京都交響楽団、N饗の平均年収は、おそらく、600万円から700万円と想像します。日本の芸術家はこのような報酬で世界と戦えません。豊島区が芸術家のスポンサーとなる仕掛けを検討されたらどうか、と提案しました。

次に、劇場文化都市を支える都市計画制度の提案です。ニューヨークのブロードウェイはニューヨーク市独自の都市計画で沿道の建築は全て劇場と義務付け、その代わりボーナス容積を与えています。夜間賑いをかもし出し、犯罪減少の抑止効果、来街者の増加による経済活性化につながっています。地区計画制度や広告物条例の活用(現行の広告物条例で歌舞伎町の広告物の混乱が生まれています。一方の意見でこの混乱が素晴らしいと評価する方もいますが)、看板の単体規制でなく全体規制、誘導をご検討されてはとご提案させていただきました。

豊島区は今や芸術文化で東京、日本で、最もホットな場所です。期待しております。

港区長秘話60、金正男事件に思うこと二題。

金正男氏が殺害されました。大きな報道で、また、背景説明がされています。思うこと2題。2001年偽造パスポートで日本に密入国、逮捕され国外追放されました。今や公然情報ですが、区長時代親しい警察関係者から「金正男氏が(港区内の)赤坂の韓国クラブを頻繁に訪問し豪遊していたことは承知していた」と聞きました。この話はすでに多く報道されていますが。ここから一点。日本政府の外交べたです。金正男氏を切り札に大胆な毅然たる外交を展開すべきでした。日本的に事を荒立てず、まーまー方式での対応でした。

殺害の背景。様々な報道で異母兄弟の金ジョンウン氏が金正男氏の影響力を恐れ、また、マカオでの氏の経済活動(利権)を敵対視したという解説があります。私は政治家でなくたまたま頼まれ区長を務めました。政治的野心も全くなく、マイペースで好きな仕事をしてきただけの人生です。区長退任後、港区内のいくつかのサークル活動に誘われ、社交と思い参加しました。ひたすら仲良くし、政治的発言は一切なしです。数年前サークルの責任者から「原田さんは元区長とどういう関係か?」と聞かれました。やんわり適当に回答しました。質問が唐突で違和感を感じました。元区長氏からある種の圧力があったのでしょう。しばらくしてそのサークル活動に居ずらいような体験をしました。居ずらいし逆にそのサークルにご迷惑が掛かってはと思い、退会しました。元区長氏は地域活動を支える文化スポーツ財団理事長、体育協会理事長を務めていました。原田がサークル団体で楽しく活動していることをよしとしなかったのでしょう。バカバカしい限りです。幼稚園生レベルの仕掛けです。人生、こういうこともあるという例です。私は専門的な知見を有し、国内外に特殊なネットワークを持っていますから他のサークルからも時々お誘いをいただきます。そのたびに「区役所にご迷惑をかけるといけませんので」とお断りをしております。私はある種のイジメと認識しました。

港区教育委員会は数年前いじめ事件を踏まえイジメに関するシンポジウムを開催しました。私は教育委員会の幹部に港区の上層部がいじめをしていて何がいじめ撲滅シンポジウムだ、何なら私が会場で発言しましょうか、とソフトにかつ冗談風にお伝えしました。

港区長秘話59、石原元都知事の目撃談2題?

豊洲問題で石原基都知事の名前が報道で出るようになりました。港区長時代に石原さんと接触する機会が2度ありました。一度は数人の区長と都知事の懇談の席、二度目は都営地下鉄汐留駅の開通式です。報道で威勢のよい発言をする方という印象がありますから、面白い挨拶を期待しました。

一度目。区長会幹事との懇談会の席です。テーブル席で目の前にいる石原都知事が最初に挨拶をしますが職員が作成した挨拶原稿を全くの棒読み。我々のほうを一切見ずただひたすら原稿に目をやり読んでいました。報道で威勢のよい自らの言葉での発言は一切ありませんでした。懇談の席ですから、デリケートな問題の議論の場でありませんから、数人の区長を前にご自身の言葉で挨拶をするべきでした。面倒くさがり屋、区長たちを小ばかにしているなと印象を抱きました。

二度目。地下鉄大江戸線汐留駅の開通式で。控室で石原都知事、当時の都議会議長M氏、港区の私と3人が式典を前に待機していました。都議会議長M氏が都知事に「(汐留駅のそばの)浜離宮庭園を入場無料にしたらどうか」と語りました。石原都知事は「それは無理でしょう」。式典が始まりました。最初に石原都知事が挨拶。突然「浜離宮庭園の無料化を検討したい」と始めました。都議会議長氏のアイデアのパクリです。しかも数分前の発言と正反対です。行き当たりばったりの発言です。私も驚きました。そばにいた東京都の幹部は驚きました。所管の建設局長は驚きました。その時の気分で、思いつきでしゃべる方と感じました。信頼をするに難しい方と感じました。東京都と区長会との財源問題でも同様の発言がありました。それは別の機会で。

仲間づくり、体験に基づく。

特に20代、30代前半の方に、仲間づくりの体験に基づく教訓をお伝えします。私は30歳で独立自営しました。一人ですから、外部の方たちとお会いし、勉強させていただこうという気持ちでした。私自身もユニークな調査研究資料、特に海外の資料を持っております。情報交換になります。留学の同窓会で多くの方とお知り合いになりました。後年、中央官庁のトップになった方がいます。いつもご個人的に指導いただきました。都市問題研究者の柴田徳衛先生のゼミに誘われました。出席者の多くは都庁や区市役所の職員。後年港区長に就任した際、情報交換に役立ちました。この勉強会に港区職員が2人いました。奇遇でした。別の勉強会に誘われました。朝日新聞の幹部(後年社長、氏から論説記事やコラム執筆を依頼されました)、日銀の幹部がいました。後年考査局長や理事になりました。伝統建築の勉強会に誘われました。数寄屋大工、社寺大工、瓦屋、左官屋など伝統建築の職人さんたちと友人になりました。いつも伝統建築を学んでいます。

立場を離れ、外部の方、特に自らと異なる分野の方々と大いに交流することを勧めます。人生観、教養の幅が広がります。

仕事の進行管理、住宅設計と豊洲市場

住宅設計をしています。30坪程度、3000万円程度。建築設計のスタッフと構造設計、電気設備、機械設備と6名で高齢のご婦人と1か月に一度打ち合わせをします。スタッフが数ページの議事録を作成し、次の打ち合わせの際、まず、議事録を確認します。私は丁寧に仕事を進めることを信条としています。当然のことです。クライアントのご高齢のご婦人が曰く「原田さんのようにきちんと議事録を作成すれば、豊洲のような問題はなかったのでしょうね」と発言がありました。お褒めの言葉と認識しています。豊洲は数千億円。豊洲市場の設計で、発注者と設計事務所が議事録を正確に作成していれば、あのような問題は生じなかったと思います。議事録作成、工程管理はあらゆる業務で必要です。特に規模が超巨大な施設の場合、なおさらです。また、業務の流れが関係者全員が共有するよう、業務の流れを理解するための工程表を作成する必要があります。私は、かつて、きめ細かい業務のフローチャートを作成しました。この考えは今でも役に立っております。大手だから大丈夫という過信はやめたほうが良いです。規模の大小に関わらず、発注者、受注者が常に丁寧に仕事をすることです。

仕事の情報源づくり

仕事をする上で多くの資料が必要です。30代、40代、留学時に入手した大学や市役所の資料が大いに役に立ちました。建築学会の図書館、学会の論文集も必ず閲覧するようにしています。デザインの仕事ですから、週刊誌、鉄道や飛行機の機内誌の美しい写真、イラストも重要な参考資料、ヒントとなります。

新聞記事も重要な資料です。建築や都市に関わる分野の新聞記事資料は1970年頃からファイルしています。建築の専門誌は日本とアメリカの雑誌を中心にファイルしています。

出張のたびに車両の測量や宿泊先にホテルの測量をしています。ホテルの部屋は、ホテルの設計はもとより、住宅の寝室、老人ホームの設計に役に立ちます。

1995年頃からニューヨークタイムズのインターネット配信が始まり、夕方4時頃に(ニューヨーク現地時間は午前2時頃?)はニューヨークタイムズの記事を読みました。無料です。ニューヨーク市民よりも早く読めるのは面白いです。ニューヨーク市政、犯罪、都市開発、教育、文化芸術などの記事をファイルしました。今は、ニューヨークタイムズとワシントンポストをインターネットで閲覧しています。アメリカ建築協会(AIA)もインターネットで読んでいます。テレビではCNNを毎日1時間程度見ています。異なる視点のニュースを読むのが面白いです。専門雑誌のファイルも仕事で役に立ちます。

特に若い方に、情報源となる資料ファイルの参考となれば幸いです。