日別アーカイブ: 2017年4月2日

最初の留学先での友人の作り方。日本の伝統芸が効果的。芸は身を助ける。

1969年アメリカ、オハイオ州ウースター大学に留学しました。どのように友人を作ったらよいか全くわかりません。交換留学に行くといっても英語がそれほどに話せるというレベルでありません。見知らぬ学生(全寮制、1300人程度の規模ですからキャンパス内は全て大学の仲間です。)とたまたま会話をし、どのような話題を話してよいかわかりませんので、柔道や音楽などの話をしました。

中学の部活で少し柔道を習いました。1年生の時、大柄の3年生から背負い投げを習いました。指導員の先生はいませんでした。先輩が親切丁寧に教えてくれました。早稲田大学では保健体育の授業で柔道を取りました。基本的な練習をしただけでした。ウースター大学で柔道を知っている学生はほとんどいません。小柄の私が大柄の学生に技をかけ、背負い投げのさわりをデモンストレーションしました。友人たちから尊敬のまなざし。日本国内では全く相手にされないレベルですが。

また、全寮制で、大きな個室と共有のホテルのロビーのような広いリビングルームがあり、高級そうな応接セットが配置されています。寮の建物は7つ程度ありました。各リビングルームにはグランドピアノが置いてあります。誰も弾きません。休息の時間に時々へたくそなピアノ演奏をしました。すると友人たちが、おそらく、「ケイミは文化人だ」と思ってくれたのでしょう、また、尊敬のまなざしでした。

日本の伝統芸のおかげで(初心者レベルですが)多くの友人を作ることができました。芸は身を助けるというフレーズを実践しました。

 

20歳で大学講師?最初の留学先でのユニークな経験。

1969年から70年まで早稲田大学の交換留学生としてアメリカオハイオ州のウースター大学に留学しました。日本にはなじみが薄いですが、全寮制のリベラルアーツ大学(一般教養大学)です。様々教養を身に着け、大学院での専門学習に備えるという位置づけです。ウースター大学(リベラルアーツ大学)には建築、法律、医学などの専門職課程はありません。そこで私は建築に近い美術の授業を中心にとりました。(今思うと、スピーチやドラマ、スポーツ(乗馬やボーリング)などの授業を取っておけばよかったと反省しています)ウースター大学の指導教官アーノルド・ルイス教授は私が日本で建築学科の学生であること、少なくとウースタ大学の中では日本建築の唯一の知識所有者であることから、3学期(1970年3月から6月まで)に「日本建築」の講義をしてほしいと依頼がありました。ルイス教授が「日本建築」という講義科目を1969年中に学内で了解を得て告知しました。ルイス教授は実際授業は行わず、私がすべて担当しました。教材は日本建築学会が作成した日本建築史のスライドをたまたま持っていましたのでそれをもっぱら使いました。また、小さな大学ですが、図書館が立派でなぜか日本建築の蔵書も相当数ありました。驚いたのは日本語の建築の本もいくつか棚に置いてありました。科目設置の弾力性、教授や友人の考え方の弾力性に驚きました。権威主義、ヒエラルキーの日本の大学ではありえません。10人の友人が日本建築の授業を登録し出席しました。最初の授業の時には60分終わった後、背中にびっしり汗をかいたことを今でも覚えております。ルイス教授から(というより大学から)アシスタント料として100ドルいただきました。日本円で3万6千円。当時大卒の初任給が3万円以下ですから、今日の貨幣価値からすると20万円以上の報酬でした。その時のカリキュラムは今でも大事に持っています。

1988年イギリスの対ソ連戦略の基本姿勢、ロンドンで聴いた話。

北朝鮮を取り巻く情勢など東アジアに大きな危機が迫っているとの報道があります。1988年イギリスの建築事情を視察の際、ロンドンの軍事大学に留学中の友人を訪問、よもやま話をしました。ロンドンの軍事大学はイギリスの軍人の最高幹部を養成する学校です。イギリスの同盟国や旧植民地の国の軍の最高幹部が国防理論についての勉強に集まっています。軍事分野の世界のネットワーク形成の舞台でもあります。食事をしながらよもやま話をしました。その中の一つです。イギリス政府はソ連に対し、「ソ連軍がベルリンを越境したら、無条件にモスクワにミサイルを撃ち込む」というメッセージを送っている」とのことでした。国際防衛環境の厳しさ、率直なコミュニケーションの実態を知りました。国防は現実的な対応が求められます。

港区長秘話62、元区長S氏の要望で更なるポスト獲得のための活動

港区長秘話12で書きましたが、元区長S氏の就職のための活動をしました。23区が運営する福祉財団の理事長ポストでした。うまく見つけることができました。しばらくしてS氏から更なるポストが欲しいと言われました。具体的に23区人事委員会の委員のポストが欲しいと直接言われました。ということで、早速当時の23区区長会のK区のM氏を区長室に訪問しました。「港区の元区長S氏はお元気であり、経験を活かし、23区人事委員会委員として貢献したい、活躍したい。空きポストが生じる際には後任人事にS氏をよろしく」と挨拶、お願いしました。結果的には成果が表れませんでした。K区のM区長は別の方を任命しました。

私は様々な専門資格、経験、学術論文、海外での体験、最先端情報など持っております。それこそ何かお役にたてればという気持ちはあります。しかし、猟官運動は好きでありません。巷間言われるような天下りに関心ありません。武井現港区長に一切依頼ごとをしておりません。一人で政策提言論文など書いております。

最初の留学先ウースター大学で留学生の日にお琴を演奏しました。

1969年早稲田大学の交換留学生としてアメリカ、オハイオ州のウースター大学(The College of Wooster)に留学しました。10月のインターナショナル・デイで留学生がお国の文化紹介する日です。当初私はピアノを演奏、日本の歌の小品を紹介するつもりでした。インドネシアからの留学生が曰く、「大学職員の奥さんが日本のお琴を持っているから、ケイミ、もし弾けるならお琴の演奏をしてくれないか」と質問されました。妹が5歳頃からお琴を習っていたので、耳学問でいくつかの曲を自然と覚えました。アマチュアによるお国自慢という場ですから「サクラ」を一曲弾きました。アメリカ人学生にとり珍しい楽器ですから拍手喝采でした。しかし、人口2万人の市で日本のお琴を持っている方がいるのには驚きました。大学職員氏は日本の駐留米軍の大佐として戦後しばらく日本で勤務し、その際奥様が関心を抱きお琴を買い、アメリカに持って帰ったそうです。大学職員(施設部長)は日本駐留中(岩国基地)に地元の方からいただいた記念品を氏の机に飾っていました。氏にとり大切な記念、思い出の品物だったのでしょう。

都心の空きビルのコンバージョン(用途転換)による再生事例

都市開発をしている知人の案内で都心にある個人ビルがコンバージョンし蘇りました。テナントが出てしまい空きビル状態になった小規模ビルのコンバージョン(用途転換)を見学しました。敷地は幹線道路に面し、緑地に面し、好立地です。建築面積は約50坪。10階建て、築20年です。不動産市場の悪化の理由で多くのテナントが出て行き、空きビル状態となり、ビル経営として問題となりました。

そこでコンバージョン(用途転換)し、空きビル状態をデザイン豊かな新しいビルに作り替えました。小規模オフィス、シェアオフィス、小規模なサービスアパートの混合用途です。9階にコモンスペース(ラウンジ、パーティスペース)を設置しました。現在ほぼ満室状態だそうです。

新たな都心の空間需要を掘り起こしました。コンバージョンにより建物をよみがえらせたことは環境面からもすばらしいことです。今後、こうした事例が増えることを期待します。

港区長秘話68、赤坂特養の工事監理契約でU助役の不実

平成13年の夏、すったもんだの挙句、赤坂特養の工事(設計契約は元S区長の時)契約が噂通りのK社で決まりました。(参加した16社の見積書を改めて提出させ、自らチェック、内容の問題を洗い出しました。U助役以下契約部門の部長、課長も真相解明する意思はありませんでした。)

設計契約はU社。予定価格約8000万円の8%という不自然な価格で入札しました。経営的に成立しません。倒産します。常識的に見ると、構造設計費用1000万円、積算費用1000万円、機械設備設計費用1000万円、電気設備設計費用1000万円を要します。外注費で4000万円要します。裏で本命の建設会社が手伝い、積算書も低額落札を補完する金額が上乗せされていると予想しました。私が見積書を自らチェックし30億円だった見積額を3億円減額させました。施設課職員は当事者意識はなく、本来の施設課の仕事ですが自らチェックしませんでした。悲しいことであり、憤りを感じました。

前置きは以上ですが、そこで、工事期間の設計事務所の監理業務も設計落札と同率で予定価格の8%で当該設計事務所に発注せよとU助役に命じました。実施設計の落札率を基に監理業務を発注することは他の自治体でもよくやる方法です。

てっきりU設計事務所が工事監理の業務をしているものと思っておりました。しかし、とある時、施設課の係長が区長室に来室し、(課長が来ないのが不自然です)監理業務の報告をしました。聞くと、設計事務所へ発注はせず、施設課で内部監理をしているとのこと、驚きました。助役の不実。それから、上記のような事情があり、施設課職員は当該職務に頑張ろうという意識が十分でありません。また、デザインは特殊能力であり、施設課の職員は業務管理をすることは経験がありますが、色彩、素材など感性で決める訓練はされていません。つまり、デザイナーでありません。外部からU助役に働きかけがあったのでしょう。

港区長秘話67 赤旗新聞販売に熱心な共産党区議会議員

港区長時代、某係長から聞いた話です。係長試験に合格すると合格者名簿を見て共産党区議会議員がやってきて「係長試験合格おめでとうございます。ついては今後の勉強材料に赤旗を読みませんか」と購読契約を勧誘するそうです。係長試験に合格したばかりの嬉しい気持ちと共産党議員からの勧誘で、何となく断りずらく赤旗購読を申し込んでしますそうです。赤旗購読契約をすると手数料が議員の懐に入ります。多くの係長が購読契約をしているそうです。不自然さを感じます。

1992年頃港区の都市環境部長を務めたT氏(東京都からの出向)から直接聞きました。自分の所に共産党の区議が来て赤旗の購読を勧められたとのことです。何度来ても頑として断ったそうです。共産党議員から嫌われたそうです。