月別アーカイブ: 2017年5月

留学貧乏実話

1969年、早稲田大学3年生、20歳の時アメリカに交換留学しました。今思いますと、貧乏生活したなという思い出です。交換レート1ドル360円。日本の大卒の初任給は3万円以下、アメリカでは初任給500ドル以上(18万円)大変な日米経済格差の時代でした。

大学が始まる前、ニューヨーク市に数日滞在した時。市バスは25セント(90円)、当時の都バスは20円。今都バスが200円ですからニューヨーク市バスは900円という感覚。市バスの料金は高すぎでニューヨーク市内を建築の見学のため数キロを歩き続けました。9月初旬で暑い日が続きましたが、自動販売機のジュースは高額(10セント:36円、今の感覚で360円)で買えず、公園内の水飲み場でのどの渇きをしのぎました。

服装は学生服の黒いズボンを1年間はき続けました。ワイシャツは適時洗濯しましたが、2枚を交代交代に着ました。靴はアメリカでお世話になった友人のお古のボロ靴を1年間はき続けました。散髪代は高そうなのでインドからの留学生(ラジュ・アルワ:今でも名前を覚えています)に相談したら、自分でハサミを持っているとのことで散髪を時々無料でしてもらいました。

アメリカ国内の移動は21歳までは飛行機半額で乗れる優待割引制度を活用しました。時刻表を見て、食事がサービスされる時間帯の飛行機に乗り、食事代を節約しました。可能な限り友人宅でホームステイさせてもらいましたが、友人がいない場所では安ホテルに宿泊。ベッドだけの部屋で、冷房なし。シャワー、トイレは共用。しかも、ある安ホテルではトイレの扉が全部壊れている(ない)のにさすがショックを受けました。そのホテルは1泊3ドル50セントでした。日本円で1150円。当時は日本で学生アルバイトの一日分です。今の感覚で8千円くらいでしょうか。日本の学生には高額でした。食事はマクドナルドでハンバーガーとコーラ。25セント。90円。感覚的には900円相当。それが貧乏日本人学生にとり最高の食事でした。今では楽しい思い出です。今では、お世話になったお返しの気持ちで、時々、海外からの留学生にお食事を提供して差し上げます。

ホスピス牧師、日本にはない仕事。

20年前、国際会議出席のためアメリカを訪問しました。娘も連れて行きました。その際、私が20歳の時早稲田の交換留学で学んだオハイオ州のウースター大学時代の女性の友人宅を訪問し子供同士(同い年)の交流も目的の一つでした。自宅を訪問しホームステイしました。連れ合いの方を紹介されました。名前から北欧系の方。

職業はホスピスで牧師をしていると自己紹介されました。死を目前にした患者さんとお話をし、精神的に安楽にすることが仕事です。日本にはない職業です。宗教観、人生観の違いです。日本ならまだ本人に本当の病名を言わないことが多いと思います。「その内よくなりますよ」と医者は患者に説明し、その後で家族には本当のことを伝える場合があります。私の親の時もそうでした。

欧米で医者がそのような態度をとると事後真実を伝えなかったと裁判所に訴えられると思います。氏から細かい話を聞きませんでしたが、医者が後数日の命と先刻した患者に対し、「〇〇さん、あなたは立派に生きましたね。家族、友人に恵まれましたね。後数日の間、祈り続け、楽しかった人生に感謝しましょう。神様があなたを祝福しています。そして、神様の御前に行きましょう」とでも牧師がやさしく語りかけるのでしょう。

日本では病院で僧侶がうろちょろしたら縁起悪いと患者や家族、病院職員から叱られるかもしれません。しかし、宗教の役割を考えさせられる一コマでした。

1930年代を舞台にしたアメリカ映画から思う武装の状況

中学生の頃「アンタッチャブル」というアメリカのテレビ番組が日本で毎週放映されました。毎週見ました。1930年前後、シカゴの有名はギャングの親玉、アル・カポネ一家とFBI(連邦捜査局:アメリカ司法省の実働部隊)との戦いの実話の映画です。シカゴ市警は自治体職員でギャングに買収され、FBI連邦捜査官は買収されない(アンタッチャブルの題名の由来)ということでFBI捜査官がカポネ一味と戦いました。

中学生なりに感じたことです。ギャング一味もFBI(警察)も機関銃で撃ち合っていました。一方、太平洋戦争で日本軍はライフル銃のような武器で戦闘していました。武器の性能という観点から日本軍はアメリカのギャングや警察より遅れていると感じました。

別のアメリカ映画で、1930年代を舞台に、ボニー・アンド・クライドという夫婦で車で旅しながらの銀行強盗の実話です。これまた、武器は機関銃でした。

1930年代からアメリカではギャングも警察も機関銃で戦っていることを考えると、戦争で負けるのは当然、(負けた理由は他にもたくさんありますが)と、子供ながら感じました。20代で欧米に留学し、また、国際会議で海外に行くと、空港、鉄道駅で警察官、軍人が機関銃を持ちパトロールしています。1979年香港空港で警察官が銃身の短い機関銃でパトロールしていました。それが国際水準です。1990年代、国会で自衛隊が海外に派遣されるにあたり隊長のみにピストルを持たせるかどうかの議論をしていました。イデオロギー論争はともかく、世界の治安情勢の実態を理解すべきと思いました。

音楽評論家湯川れい子氏の生い立ち、英語学習、国際理解、港区の幹部も学べ。

読売新聞で現在、音楽評論家湯川れい子氏の生い立ちについてのインタビュー記事が連載で掲載されています。英語学習、国際理解に参考となる記事です。特に、大使館が多く、外国人が10%いる港区の幹部はその記事を学ぶべきです。

湯川さんは、戦後、10代の時、ラジオから流れる軽快なアメリカ音楽に関心を持ち、同時に、英語でジャズなどアメリカ音楽を学びたいと思い、英語を学ぼうと決意、弁当持参で映画館に行き、1日4回同じ洋画を鑑賞し、英語を学んだ、というような内容でした。私は建築という分野で異なりますが、欧米の建築事情を知りたい、そのため、英語を勉強しようと思った動機は湯川さんと同じものがあり、インタビュー連載記事に共感を抱きました。

港区は表面的には異文化理解、国際理解とトップが発言していますが、実態は異なります。トップは異文化を理解しているとは到底思えません。また、トップ含め幹部たちは英語を理解しません。

私は欧米の建築事情を勉強したい、そのため英語を勉強しようと、海外で勉強しようと、実践した人間です。現実は、元区長(15歳から港区役所しか知らない)、一部区議(30歳から70過ぎまで区議を勤め裏ワザばかりやっていた区議)、現在のトップ(区役所しか知らない)たちには英語や海外事情を勉強した人間は異端に思えたのでしょう。湯川れい子さんのインタビュー記事を読むと少しは国際理解、英語学習の理解の一助になります。

マンション大規模修繕の裏側

マンション大規模修繕の体験3題です。今後、マンションの大規模修繕をご計画の方、ご参考にしてください。数日前には某マンションの大規模修繕の設計監理を依頼された際のエピソードを書きました。今回は自分のマンションの大規模修繕の嫌な体験談です。私は現在のマンションに住み始めた当初の20年間理事、理事長を務めました。その時の経験です。

20年前(マンションは築15年以上経過していました)、マンションの大規模修繕をすることになりました。3者に見積依頼しました。A社(本当の会社名のイニシャルはI 社)は9300万円。(と記憶しています)B社、C社は1億円強の額でA社に比べ1000万円高い額でした。私は3者の見積書を調べました。A社の安い理由を見つけました。屋上防水の見積項目がありません。B社もC社も1000万円の屋上防水が含まれていました。築15年以上経過していますので屋上防水は必要な工事です。理事会で3者の説明を聞き、A社に「防水が含まれていない理由は何か」質問しました。すると、「屋上防水の状態は良好で、防水工事をする必要がない。5年以上大丈夫」との説明でした。A社の見積額に屋上防水を含めると3者で最も高い額になります。私は「屋上防水は必要である。築15年以上経過しているので」と主張しました。しかし、他の理事は安いA社でよい、と意見、結果A社に決定しました。その時の理事長はA社を気に入っていたようです。

2年経過しました。A社の営業マンが理事会に来て、そろそろ屋上防水をしてはどうかと1000万円の見積書を持ってきました。私は即座に2年前の大規模修繕の際「屋上はあと5年は大丈夫と説明したでしょう、2年後に屋上防水の工事をしませんかとの説明は2年前仕事を取りたい目的で屋上防止工事を抜き、安い見積書を出しただけで、不適切な営業活動だ」と叱りまました。すると、営業マンは「あの時の担当者はやめたのでその時の事情は分かりません」とよくあるごまかし説明。2年前の見積の内容説明を覚えていた他の理事が私の発言に賛同してくれました。私はA社の営業マンに「屋上防水は5年大丈夫と説明があった。もし、問題が発生すればA社の責任だ」と伝え帰ってもらいました。理事たちが「原田さんの指摘の通りになった。安いからよいというわけでない」と反省。見積書の内容、ねらいをよく分析しないといけません。(安かろう悪かろうの具体例は港区立住宅のエレベーターメンテナンスの契約で2006年事故が発生しました。予算400万円に対し、100万円の低額で落札したメンテナンス業者にメンテ業務を発注、手抜きメンテで事故が起きました)

数年後、屋上防水工事をすることになりました。再度、理事長(元建設会社勤務)がある特定の防水施工会社P社を連れてきました。防水関係者にその会社の評判を聞きました。別のQ社が評判が良く、かつ、見積額も妥当なので、Q社に依頼することにしました。理事長が特定の会社を連れて来たり、推薦するのは不適切です。

3度目の体験です。私は港区長に就任し、理事を辞めました。3度目の大規模修繕でした。他の理事から聞いた話です。見積比較でX社に決まりました。すると、後出しジャンケンでもっと安い見積額を提示したY社に決定したとのことでした。不適切な手続きです。しかも、Y社は施工会社でなく建材メーカーです。異常な手続きです。さらに、各住戸のリフォームの場合、現金取引です。脱税目的ではと感じました。大手の建材メーカーです。私は理事でありませんし、区長職に就いていましたので、個人的な意見は出しませんでした。

以上自らのマンションの大規模修繕で体験した3つの不適切な手続きでした。こうしたことがないように、信頼できる専門家に相談することをお勧めします。

 

 

 

オフィスデザイン、欧米では政策研究の重要テーマ

日本ではオフィスデザインというと、机を島状に並べれば十分というオフィス文化です。私は1971年スウェーデンのインテリアデザイン事務所、カール・クリスティアンソン建築事務所での技術研修で、オフィスデザインを担当し、驚くことばかりでした。職務分析をし、仕事、書類の流れを分析し、視線と視線が合わないように机のレイアウトを45度に曲げたり、休憩ゾーンを設置、プライバシーと快適性確保のため植物を多く配置するというデザインでした。また、技術的には、机の移動が簡単にできるよう天井から電話や電気の配線をしました。騒音測定、空調の温湿度管理も検討しました。理詰めと感性の融合です。

合理化、生産性を追求する日本では今でもこうした考え方でのオフィスデザインをしている組織は少ないと思います。最近アメリカのブルッキングス研究所の報告書を読み、また、驚きました。ブルッキングス研究所はアメリカを代表する研究機関で防衛、外交、経済、教育、福祉、財政、税制、産業など様々な分野で政策提言をしている著名な研究機関です。ブルッキングス研究所が技術革新のための快適オフィスについての提言をしました。日本のシンクタンクではこのような分野の研究をしていません。サービス産業の従事者がその主たる空間のオフィスでどのように効率的、快適な空間にし仕事するか、大いに研究すべきです。

私は1971年日本に帰国後専門誌や建築学会などに小論を寄稿しました。反応がありません。日本の組織文化ではオフィスデザインを考えるという発想がないようです。港区長時代、森ビルの某オフィスでそうした新しい技術でデザインしたインテリアを見学しました。森ビル社長のご案内でした。失礼ながら、1971年スウェーデンのオフィスでは当然のことでしたと森社長に逆に説明をしました。グローバル化の中、これからはオフィスデザインを国家戦略として考える時代です。

交通事故件数抑制、着々と成果、交通警察の努力

平成8年から12年、港区長に就任するまでの4年間、警視庁交通部長の下での研究会委員を務めました。委員長は大阪大学心理学の教授長山先生。委員というより私が勉強させていただきました。当時は「チャレンジ400」をスローガンに交通事故死を400人以下にするという目標で警視庁の交通部門は頑張りました。間もなく達成しました。委員退任後10年以上経過しました。その後どのような経過か調べて驚きました。「チャレンジ200」でした。それも達成できたようです。春秋の交通安全運動。様々な交通安全の学習活動の成果です。データを承知してませんが、おそらく、世界でトップクラスの成績と思います。警察交通部門の皆様に敬意、感謝です。

しかし、今後の傾向として高齢者の事故の割合が高く、なおかつ、高齢者人口が増加しますので、高齢者の交通安全確保は今後の課題の一つです。一方、交通管理が難しい、中途半端な幅員の道路の整備(幅員が十分あれば横断歩道を渡りますが、6mとか8mだと中途半端で斜め横断の傾向が増加します)が課題となります。また、こうした交通安全のノウハウを他国に輸出することも国際貢献になります。これも今後の課題です。

港区長時代、交通安全運動では警視庁で委員を務めたおかげで何とかお勤めを果たせたと思います。

ニューヨーク市の観光政策と都市開発に関する考察の自家本編集。

平成29年4月「ニューヨーク市の観光政策と都市開発に関する考察」の自家本を編集しました。28年4月、明治大学公共政策大学院の紀要論文に寄稿した拙論です。その際弁護士の友人から、論文だけだとイメージがつかめないので画像を挿入し再編集してはと助言をいただきました。私は納得、1年かけ画像を集め(比較的自由に使えそうな画像)編集しました。

ニューヨーク市は観光政策で頑張り、国内、国外から観光客を集め税収が伸びている。観光のため都市開発、特に歩行者空間、公園整備をしている。ブロードウェイの劇場街を中心に文化芸術で観光客を集めているなど、これまで10年間ファイルしたニューヨークタイムズの記事を中心に編集しました。観光はこれからの産業の柱です。雇用政策の柱です。

たまたまこれからニューヨークに行くという友人からちょうど良い観光ガイドブックで使わせてもらうとコメントをいただきました。また、9月にニューヨーク市に視察に行く予定の知人からも同様なコメントをいただきました。

ニューヨーク市の観光政策の状況と比較し東京都の観光政策の課題指摘もしました。東京都観光部職員や区市の職員は観光政策は従来と比べ不慣れな分野。ニューヨーク市の観光政策の実情から見ると東京は問題が多いと指摘しましたが、拙論が彼らの政策検討に少しでも役に立つならという気持ちです。関係局長、観光部長にも送付しました。反応なし。小池知事からはお礼状が送られてきました。

 

1971年スウェーデンのセキュリティの状態

1971年スウェーデンに留学した際の体験です。住んでいたアパート(日本で言うなら立派なマンションでした)はオートロックでした。オートロックは初めての体験で驚きました。友人のアパートを訪ねました。入り口はオートロックでした。私は設計事務所(カール・クリスティアンソン建築事務所)で技術研修でしたが、事務所のあるビルもオートロックでした。スウェーデンは当時凶悪事件はほとんどありません。スウェーデンはヨーロッパ大陸の端に位置し田舎住まいでカギをしないで暮らすような地域柄ですが、アパートやオフィスのセキュリティは高く、防犯の意識が高いことが分りました。日本人は平和ボケ、安全ボケしていると思います。

区長秘話81、たかり屋議員からたかられないよう気をつけろと実直議員から助言。

30歳の時読売新聞社が主催する「マイタウン構想提案論文コンクール」(当時の鈴木知事に対する新聞社としての応援目的だったと思います)に私の提案論文が入賞しました。賞金10万円でした。新聞報道を見て公務員の友人から電話。祝ってくれるのかと思ったら逆。「賞金もらったのだからおごってくれ」でした。少し腹が立ちましたがおごるのも友人関係によいかと3人の公務員を招き食事の席を設けました。その後10年もしてその3人は昇進コースから外れました。根性が悪い連中と思っていましたが、上司からの評価もよくなかったのでしょう。

港区長に就任した際地元の区議会議員で元議長を勤めた実直なU氏から自分の体験談を基に真剣な助言がありました。「たかりや議員がいる。たかられないためにその2人の誘いに乗るな」が結論。「議長時代、夜寝る時間に同僚議員(与党のボス)から電話があった。『赤坂のクラブにいる。話があるので来てほしい。』円満、円滑な議事進行のための相談ならと、パジャマを脱ぎ背広に着替え指定の赤坂のナイトクラブに出向いた。電話した主ともう一人野党のボス議員と2人いた。しかし特に真剣な相談は無し、何の話かと思ったら、要はナイトクラブの支払いをしてくれというたかりだった。その後何度も2人のナイトクラブの請求書が届き、払わされた。円満円滑な議事運営のためと怒りを収め払い続けた。大変な額だった。」私はU氏の助言を忠実に守りました。件の野党のボス議員と廊下ですれ違った時など「区長たまには議会の円満な進行のため一席どうですか」と声かけられ「その内やりましょう」とにこやかに答え、実際は無視。

地方政治の現実の一部です。