日別アーカイブ: 2018年1月7日

港区長秘話94、都心居住シンポジウムパネリストとして参加、ベテラン議員からなぜだ?

平成14年の秋、読売新聞からの依頼で都心居住のシンポジウムのパネラーとしての出席依頼がありました。私の関心分野の一つです。区長就任前、港区で定住促進研究会会長を4年間務め、港区の都心居住政策の提案をまとめました。また、ニューヨーク市を中心にアメリカやヨーロッパの大都市の都心居住の実態を視察したり、調査研究した実績もあります。港区の都心居住政策をPRするのによい機会です。また、欧米の都心居住政策を紹介するのによい機会です。と思い、パネリストを引き受けることにしました。

ところが8期のべテラン議員が区長室に来て(頻繁に勝手に区長室を訪れていましたが)なぜパネリストで出るのか?とイチャモン的に聞いてきました。上記の理由を挙げ、説明しました。氏はベテラン区議ですが、こうした知的な活動には関心がないようでした。海外の事例を含め日本での都心居住政策を自分の経験で語れるだけのコンテンツを自ら持っていました。また、読売新聞主催の都市問題シンポジウムは80年代から90年代は私の知人で読売新聞の編集委員、論説委員を勤めた本吉さんが企画、司会進行役で、いつも本吉さんから招待状をいただき、私も頻繁に聴講に行ったことがあるシンポジウムでした。私にとり勝手知ったシンポジウムでした。

港区長秘話93、議会実力者との会話、キーワードは空虚

議会の実力者と言われる方々と様々な機会に個別に会話しました。野党系の方とも機会があれば意見交換しました。また、S元区長とも時々会話しました。彼らから発せられるキーワードから彼らが何を気にしているのか、また、失礼ながら、キーワードからそれぞれの方の知識がどのようなものか理解するようにしました。結論、政策に絡むキーワードはほとんどありませんでした。自慢話、ほら話、下ネタ話などでした。実力者と言われる方との会話の内容は空虚でした。

もちろん、実力者と称されていなくても、多くの議員は真面目に議論し、有意義なキーワードを発する方もいます。そうしたキーワードから政策を検討、推進するのに参考にさせていただきました。

学生時代の留学から現在まで様々な方(人種、国籍、職業、宗教など)と会話をしました。その際、自分からどのようなキーワードを発するか(自分が何に関心を持っているのか)が重要です。相手は私の考えを知り、また、私が発する特別なキーワードから私の知識力を試しています。逆に、私も相手から発せられるキーワードから相手の関心を理解し、同時に、相手の知識力を判断します。会話の流れを創り出します。

港区長秘話92、小学校廃校問題その4、教育長から明確な謝罪なし、

平成15年12月議会で与党の議員(一部議員は離脱)の賛成が得られず、賛否同数となりました。S議長が賛成を表明し、結果、廃校条例案は可決されました。その後の庁議(区役所の中で最高の幹部会議、部長級以上は全員出席)で私はI 教育長に、今回の混乱を作ったのはI 教育長の責任だから、「この場で他の幹部にご迷惑をおかけした」と謝罪をするよう促しました。正確な記憶はありませんが、その場で、I 教育長から助役、収入役、部長達に明確な謝罪の言葉はなかったと思います。もちろん区長である私にも謝罪の言葉はありませんでした。恐らく本人からすれば謀がうまくいったということと思います。また、事務担当のU助役も調整に全く動く気配がありませんでした。私は、会派の責任者に個別に説明を続けました。議場での投票で、議案が万が一否決されたら、私は議会解散に打って出ようと腹の中で考えました。

港区長秘話91、小学校廃校その4、元区長S氏登場?

飯倉小学校廃校について、その4です。学校教育行政は教育委員会に権限があります。区長は指揮権はありません。学校の設置や廃校は区長の仕事です。教育委員会が事務的に廃校手続きを進めてきました。しかも相当強引に。小学校の廃校条例は区長の仕事です。その時点でも議会は紛糾していました。廃校条例を上程すれば議会で相当紛糾が予想されます。私の意志と無関係に教育委員会が動き、それに伴い議会も動き始めました。

すると、筆頭部長格のN部長(現在、ふれあい文化財団理事長)が区長室に来て、「議会が紛糾しています(私からすれば教育委員会が勝手にやったことだろうと腹の中で呟いていますが)、元区長のS氏に依頼し、議会対策をやっていただいたほうが良いと思いますが」と発言。私は腹の中で「やっぱり」と思いました。想像ですが、元区長S氏が本件、何らかの形でからんでいたのでしょう。S氏が登場し、S氏の力を再認識させようとの思惑と思いました。」

私は即座に「このような段階で退任した元区長S氏にご依頼するのは失礼だ。」とN部長に告げ、S元区長に調整に入っていただくという提案を却下しました。翌年6月の区長選に向けリーダーシップを取ろうとしたのは見え見えでした。こうした場面で貸を作るのは後で大きな代償を伴います。かねてからS元区長は「俺は区長選出馬にあたり退職金を全てはたいた。」と何度となく発言がありました。私が次の選挙に出馬するなら大きな覚悟をしてろ、というメッセージとも受け取れました。