2011年3月元港区長S氏が回想録(青雲たなびく)を出版されました。ご自身の子供のころから港区職員時代、区長時代、その後のことについての回想録です。私を後継者にした部分で、事実と異なる記述が多くあります。明確にする必要があります。私は当時の記録をつけておりますので正確です。
(1) 393ページに後継者について「港区都市計画審議会の副会長だった澤田氏(元建設省住宅局長、住宅公団副総裁、日本建築センター理事長)に相談してみた」と記述されています。これは前後関係が逆で、事実でありません。
私が風の便りで聴いたのはN助役が後継候補に原田の名前を挙げたそうです。S元区長から電話があり、平成12年4月14日9時半区長室へ呼ばれ「後継者として出馬してほしい」と言われました。直ちにお断りしました。理由は4つ。「①翌年の平成13年大学教授に内定している。②そもそも政治に関心がない。③朝日新聞社長は友人、警視庁や警察庁の仕事をしてきてそうした分野に友人がおり、政治の胡散臭さ、特に港区で多くの委員を務めた結果、少なくも港区政に胡散臭さを感じており区長として区政に関与したくない、(不正を見たら朝日新聞と警察に報告しますとまでS区長に言いました)、④選挙に出る資金、組織もない。」と説明しました。S区長は「原田さんのお好きなように。私は院政を敷きません」でした。その後、私が相談者の一人として澤田氏に面会、「私が直接お断りするのは失礼と思いますから長老である澤田さんからS区長にお断りの使者になっていただきたい」とお願いし、澤田さんに後日区長室に行っていただき澤田さんが「原田さんは出馬しません。させません!」と明確にお伝えいただきました。その数日後、与謝野代議士の秘書から電話があり「ぜひ出て欲しい、再考してほしい。」と口説かれ、再度、S区長に面会しました。
(2)395ページ1行目選挙資金がないとの説明に「当面、私の退職金を出しておく」について、そうした発言はありませんでした。S区長は「選挙は組織がするから心配いらない。皆が応援する。」と発言でした。
(3)395ページ7行目「原田は名誉欲が旺盛でとてもうれしそうだった」は事実でありません。私は政治に関心もなく、一方、事情も分からず、これから何が起きるのか、ただただ「悲壮感でいっぱい」でした。しかし、表向きライバル達に弱さを見せてはいけませんので「空」元気を通しました。
(4)395ページ11行目S区長「今のお仕事などは整理できるんですか」、に対し原田「事務所は女房に代わってやります。他の仕事も整理できるめどはできています」と発言したとの記述は事実でありません。
逆に私は最初に口説かれた際「設計事務所を経営しており、継続の仕事がいくつかあり、今すぐ止めるわけにいきません。」とお断りの理由として発言しましたが、S区長は「区長やりながら設計事務所の仕事を継続できますよ。」と言われ、私が内心「S区長はノー天気な方、嘘でしょー。」と感じました。私は「妻」と発言します。「女房・・・」はS氏の創作そのものです。
(5)397ページ12行目任期末を控えた平成15年12月末頃と思いますがS元区長と面会した際「S元区長達の力は必要ないという風に受っとってよいですか?」は事実と異なります。「S元区長には大所高所でご指導賜りたい。」と発言をしました。しかし、その段階ですでに原田はずしが進行していました。理由は、港区の官製談合にメスを入れ契約改革をし、開発利権に監視の目を向け、かつ、酒を飲まず仕事をバリバリ進めるやりかた、私の高学歴の経歴など、S氏と異なる手法に嫌気がさしたということです。平成15年12月に港区を水面下で動かす民間人K氏が妻に「後継者が出ますよ。」と直接言われました。K氏から「選挙で負け、借金ができ、事務所も立ち行かなくなったらどうしますか?」と半ば恫喝と受け取りました。
(6)425ページ10行目「12月原田氏が手土産もって挨拶に来た」は事実ですが、お世話になったという意味と体調いかがですかという表敬で年2回継続的にご挨拶に伺っていました。特別な時期に伺ったわけでありません。
様々な状況から原田の印象を貶めるという意味があったのでしょう。一方で、当初、S氏は院政を敷きませんと当初発言されていましたが、文脈から、区政で最大限の影響力を行使していたことが分ります。中卒で港区役所に就職し、夜間高校、夜間大学で苦学された立身出世の方で、長年区役所でお勤めでしたから隅々まで人脈を構築し、影響力を発揮されていたようでした。