アメリカではゼロエネルギー住宅、ゼロエネルギー建築が各地で竣工しています。アメリカの自治体規制でのゼロエネルギー住宅建設について、昨年4月明治大学公共政策大学院紀要論文「アメリカの環境政策の変遷」に書きましたのでご覧ください。インターネットで閲覧できます。Builderという専門誌の19年8月7日の記事です。ペンシルバニア州モントゴメリー郡でディベロパー、建築事務所、工務店が共同し開発、建設しました。工法の鍵は高断熱のコンクリート部材を壁と基礎に利用したことです。そうすることで工期の短縮と現場での廃材量が削減できました。従来の省エネ基準の住宅に比較し年間の電気代の節約は約15万円(1469ドル)、10年間で150万円の電気代節約となります。日本でももっとゼロエネルギーの住宅、建築が増えることを期待します。自らもゼロエネルギーの住宅、建築を設計したいと念じております。
月別アーカイブ: 2019年8月
海外で学べ、父親の教育哲学
時々勉強のため港区倫理法人会の朝食勉強会に出席します。毎回すばらしい講師のお話を聴きます。「経営に倫理を」という哲学ですが、「政治に倫理を」と政治家も学び、かつ、実践してほしい内容です。先日の講和です。講師が子供の頃父親から受けた影響のお話をしました。父親の愛情です。私自身も父親の教えを思い出しながら投影しつつ、講師のお話を聴きました。普通のサラリーマンでしたが、また、太平洋戦争中は水兵としてアメリカ軍と戦い、足に被弾、銃創があり、父親は戦争の話は一切しませんでした。不快な、思い出したくない出来事だったのでしょう。可能な限り見聞を広げ、海外でも学び、知識を得て、仕事をしろ(学問、知恵で戦え)、というのが暗黙の教えでした。学んだものは奪われません。現金を持っていると盗まれます。(もっとも盗まれるような現金はありませんが)
大学3年生の時(1969年、昭和44年)、たまたまアメリカへの交換留学のお声がかかりました。授業料相当額の奨学金(当時2000ドル、1ドル360円で72万円:当時の大卒の初任給は2万円台、早稲田の年間授業料は15万円くらい)が支給されるとはいえ生活費、渡航費などの負担は大きな額でした。しかも24年前までは戦争で戦った相手国です。父親におそるおそる話すと、即「アメリカに行け」でした。旧敵国で、かつ、世界の指導者であるアメリカに行き大いに学べ、という方針でした。両親は、多くの親もそうだと思いますが、自らの生活を切り詰め、私の勉学の費用を工面してくれたことと思います。1年間の留学を終え帰国、その翌年1971年、次にスウェーデンでインテリア、1974年念願のフルブライト奨学金を得て再度アメリカ、テキサス州ヒューストンにあるライス大学(1970年オハイオ州の友人や教授たちがこれからは南部の時代だと助言がありました。当時の人口100万全米6位、現在200万人全米4位)に留学しました。
3度の留学で学んだ内容はそれこそ世界最先端の学問、知識で、また、多くの友人を得ました。実務に就いてから留学経験を評価いただき、留学で学んだ内容を武器に仕事をしました。スウェーデンで学んだオフィスランドスケープは20年くらい日本で理解されませんでした。そのくらいオフィス環境の快適化は日本で遅れていました。ライス大学で学んだ設計方法論(物事の進め方、クラスター分析)も10年くらい日本で理解されませんでした。ヒューストン市の都市計画(ノンゾーニング)の方法も未だに日本で理解されていません。1975年のニューヨーク市の財政破綻も日本の自治体財政の教訓として生かされていません。ニューヨーク市財政破綻をご存知の方は自治体関係者や政治家でもほとんどいないようです。
2000年頼まれ港区長に就任しました。元区長からの要請でした。3度の留学で学んだことを活かし、港区政を展開しよう、3度の留学で学んだことを武器に頑張ろうと決意しました。ところが、就任後2か月くらいして、私を後継者に引っ張り出した元区長氏から留学の話はするなと言われました。元区長氏は40年以上に亘り港区役所に勤務したことが仕事の武器です。私は行政経験、政治経験はありません。私の仕事の武器は留学で体験した異文化に溶け込む順応性と留学で体験、学んだ内容です。大使館が80もあり大使や外国人と英語を話し彼らと直接コミュニケーションを取れることは大いに役立ちました。私自身大使らに港区を大いにPRし、日本に進出する企業があるなら是非港区に立地してくださいと直接誘致活動をしました。「国際都市港区」、また、港区役所は「異文化理解」を標榜しています。実態は、英語を話す幹部はゼロ、異文化理解は以上のような事情で幹部の口先だけでした。しかも、区長職後半には区長を支えるべき政策経営部長N氏から留学の体験を話するなと言われたのは驚きでした。嫉妬、ヤッカミの世界でしょう。私の人生そのもの、私の父親の教育方針を侮辱することです。
ハンガリーからイタリア人家族が観光で来日
昨年10月ハンガリーのブダペストで開催された国際会議に出席した際お目にかかったイタリア人弁護士(ロンドンにある大手弁護士事務所のブダペスト支店に勤務)家族が観光で来日しました。ご夫婦と中学生の双子の男の子の4人家族です。東京と京都で一週間づつ滞在、その間、箱根温泉の旅館に一泊、京都滞在中広島まで足を伸ばすそうです。羽田空港まで迎えに行き、浅草のホテルまでご案内し、その後、浅草、上野公園を散策、上野の日本食レストランで日本食をご招待しました。
日本に興味を持って下さったことに敬意です。ハンガリーは温泉大国。日本も温泉大国。ハンガリーは都市中に温泉が立地、健康目的で、水着を着て入浴します。彼らに日本の温泉は裸で入浴し、水着は着用禁止です、と教えてあげました。浅草で仏教伽藍の説明をしました。浅草寺に参拝、寺院の参拝方法を説明、父親がおみくじを引きました。双子の中学生の男の子はブダペストの国際学校に在籍、英語、ハンガリー語、ドイツ語などを学び、母国語であるイタリア語含め中学生時代から数か国語を学んでいます。多くの外国人の子弟と交流しています。国際感覚を身に着けます。彼らが成長し、仮にこうした人物と日本人がディベイトをしたら日本人が彼らに勝つのはなかなか容易なことでないと感じました。
あっ、便(検体)が流れて行く
毎年人間ドッグで定期検査を受けます。検便もあります。便(検体)を採取するためトイレでの変な体験です。建築設備が進歩し、あるトイレでは、入ると自動的に便座がパカッと上がります。用が終り、立ち上がると、自動的に水が流されます。あっ!貴重な検体が流れてしまった!さー大変、次の採取可能日は最短でも1日後。建築設備もあまり便利になり過ぎると、こうした困ったことも生じます。ワープロの作業で、特殊な字の場合、コンピューターが勝手に判断し、ある文字を入力しようとすると、私の意図と異なる文字が現れ、自分の意図した漢字が打てずどうしようもないことがあります。
ワープロの作業で、特殊な字の場合、コンピューターが勝手に判断し、ある文字を入力しようとすると、私の意図と異なる文字が現れ、自分の意図した漢字が打てずどうしようもないことがあります。
品川駅高輪口駅前のパチンコ屋、港区の品格いかに?
私の活動拠点は六本木周辺なので品川駅(港区)をあまり利用しません。たまたま出張帰り夜8時頃品川駅高輪口に降り、驚きました。大型のパチンコ屋が2件駅前にあります。学生時代、ギャンブルの町ラスベガスを視察しました。(私はギャンブルをしません)ラスベガス空港の到着し、ターミナルビルに入るとあちらこちらにスロットマシンが設置されていました。ギャンブルの町を連想させます。駅前にパチンコ屋、しかも大型店です、あると、港区の事情を知らない方、特に外国人はここの自治体はギャンブルの町かと勘違いするかもしれません。そもそも主要駅前にパチンコ屋が立地することは都市の品格に関わる問題です。私は規制緩和主義者ですが、駅前に立地するにふさわしい土地利用、相応しくない土地利用があります。パチンコ屋は駅前に相応しい御商売と思いません。
港区長も2人の副区長も都市計画のド素人。港区の品格に関わる問題と意識すべきです。議会でも議論していただきたい課題です。
アメリカ・テキサス州エルパソ市とオハイオ州デイトン市での銃乱射事件
8月4日日曜日悲しい事件報道がありました。アメリカ、深南部のテキサス州エルパソ市で銃の乱射で20人が殺されました。容疑者は逮捕されました。その数時間後中西部オハイオ州デイトン市で銃の乱射で9人が殺されました。容疑者は事件発生後1分後に駆けつけた警察官に射殺されました。悲しい事件です。
私は1969年オハイオ州にあるThe College of Woosterに留学し、その年の12月デイトン市郊外にある有名な空軍博物館を視察しました。展示場格納庫の建築が大規模で見る価値があると聞きました。偶然、長崎に原爆を落下したB29が屋外展示されていました。デイトン市内をドライブしながら結構大きな都市という印象でした。1974年フルブライト奨学金でテキサス州ヒューストン市にあるライス大学建築大学院に留学しました。テキサス州は全米で最大面積の州です。ヒューストン市はテキサス州の東側に位置しエルパソ市は西に位置しています。エルパソ市を訪問する機会はありませんでしたが、メキシコ国境と接した都市です。
事件に対する行政や捜査当局の対応についてです。アメリカでは事件捜査は自治体警察が担当します。しかし、テロ事件などはその困難性、特殊性などからFBI(司法省の連邦捜査局)が担当します。エルパソ市でも、デイトン市でも市長と市警察本部長が合同で記者会見しました。また、テロ事件であることからFBIの現地支部長が記者会見し事件の説明をし、今後の見通しを語りました。検察官も同様に事件の見通しについて記者会見しました。日本ですと記者が捜査関係者に取材し、「捜査関係者によると」という形の報道です。警察本部長や検察は表に出てきません。今後の情報公開、組織のトップが責任を取るという傾向から本部長など責任者が堂堂、頻繁に記者会見するべきでしょう。
また、事件報道で犠牲者の氏名、年齢、人種が報道されます。可能な限り正確に報道するというのがアメリカの報道の基本姿勢です。京都のテロ事件で犠牲者の氏名を警察は公表しませんが、犠牲者に対する日本人のメンタリティでしょう。日米の文化の違いを理解しなければいけません。
バリアフリー環境・遅れている日本の物的・意識面
読売新聞8月8日「1964年(東京オリンピック)の記憶」「バリアフリーに衝撃」という特集記事がありました。パラリンピックでイタリア語通訳をした方の思い出話が紹介されています。「日本選手団は療養所などから来た即席チーム、練習を重ねた海外勢に勝てない。イタリア選手は皆明るく、趣味を持ち、会社で働き、結婚していた。試合後一緒にタクシーに乗り浅草観光に繰り出し健常者と同じように過ごしておりあっけにとられた。」とのことです。
私の体験です。1969年アメリカ、オハイオ州The College of Woosterに留学した際、車いすの学生が普通に大学生活をしていることに驚きました。当時の日本の大学で車いすの学生を私は見ませんでした。1971年スウェーデン、ストックホルムに技術研修留学した際、階段の手すりは子供の高さと大人の高さの2本レールで驚きました。扉の取っ手も子供用と大人用と2か所ついているのに驚きました。1974年フルブライト奨学金でアメリカ、テキサス州ライス大学建築大学院に留学した際、大学院のクラスに聴覚障害者の学生が在籍、手話通訳の女性が一所懸命高度な授業内容をその学生のために手話通訳したのに驚きました。半世紀前アメリカ、スウェーデンでの体験です。残念ながら日本では物的環境面でも意識面でもまだまだ課題が多いと思います。障害がある方も普通に生活ができる社会づくりのための物的環境改善、意識改革を進める必要があります。
区長就任前「地域福祉」という本を刊行しました。港区長時代、港区盲人協会の皆様と積極的に交流を図りました。介護保険白書を日本で初めて作成しました。(職員が頑張りました)、財政難でしたがPFI(民間活力)で障がい者の生活施設を新橋に建設しました。地下鉄泉岳寺駅、御成門駅のエスカレーター、エレベーター設置に区長自ら東京都交通局長に直談判しました。
科研費不正・東洋英和女学院前院長。原田は自腹で論文執筆
8月7日の新聞報道で、東洋英和女学院前院長深井智朗氏が科研費で論文を執筆、それがねつ造、盗用があったと認定され科研費7年間交付しないとのことです。情けないことです。大学教授の一部にこういう輩がいるということです。日本では大学教授という肩書をあまりにも信頼する傾向があります。欧米では個人の資格、経歴、実績が重要視され、肩書は二の次です。
私事ですが、私は論文を多く書いてきましたが、全て自腹です。自らデータをコツコツ集め、取材しています。今年の4月「ニューヨーク市の治安政策」について10万字の論文を書きました。昨年の4月「アメリカの環境政策」について5万字の論文を書きました。学会の審査付き論文を8本書きました。その他、数万字の論文を相当数書きました。世間的に肩書のない人物が自腹で一人で書いてきました。大学教授は肩書きがあり、研究費をもらえ、また、卒論生、修論生、博士課程の学生を抱え、研究指導という名目で学生にデータ集めをさせます。残念ながら肩書きを権威に威張りまくる教授もいます。
ダメ教授を排除すべきです。学生や助手の手伝いナシで教授一人で書いてみろと言いたいです。素晴しい教授と付き合っているだけに残念です。
埼玉県幸手市長の出張中の問題
8月7日の新聞報道で埼玉県幸手市長が、広島市内のバーで深夜2時頃女性従業員に暴行し広島県警に現行犯逮捕されたとのこと。広島の平和祈念式典に幸手市内の中学生の引率者として参加し、その夜一人で深夜バーに繰り出したとのことです。引率者として広島を訪問し、深夜一人バーに行くことは不適切です。私は出張の際、夜は建築家の視点で宿泊先のホテルの部屋の測量やスケッチをします。プロとして当然のことです。また、出張の記録を作成します。商店街の賑いなどを調べるため夜商店街を調査目的で歩くこともありますが、深夜バーを行くことはある種のリスクを負うことになりますので、絶対に行きません。ボッタクリバーの恐れもあります。あるいはバーで客同士のけんかに巻き込まれる恐れもあります。また、商店街で深夜酔客に因縁をつけられる恐れもあります。私は出張すると必ず市役所に立ち寄り、資料を収集します。幸手市長は市長に相応しくない行動をしたと思います。出張記録を自ら作成したのでしょうか?もし、秘書任せなら愚かな市長というほかありません。
ニューヨーク市CO2削減量10年で「わずか」14.8%さて日本は?
先日ニューヨークタイムズの記事でこの10年でCO2削減率は「わずか14.8%」と書かれていました。「わずか」という表現に驚きました。昨年4月明治大学公共政策大学院紀要論文に「アメリカの環境政策」について5万字の小論を寄稿しました。ご関心ありましたらご覧ください。インターネットで閲覧できます。パリ協定によると、各国の削減目標は以下のとおりです。アメリカ:2025年までに2005年比で26~28%削減。日本は2026年までに2013年比(13億1700万トン)で26%削減。日本は毎年平均3424万トンづつ削減しなければなりません。2014年は2013年比5000万トン減、2015年は前年比4000万トン減、2016年は前年比1900万トン、2017年は前年比1800万トン。対前年比の削減量が次第に減少傾向にあります。この傾向が続くとパリ協定の約束は空念仏になりそうです。
日本国内で最もCO2を排出する東京都は2013年6548万トン。2014年6212万トン、前年比336万トン減、2015年6048万トン、前年比164万トン減。パリ協定の数値目標に基づくと目標年の排出量は4745万トン、毎年130万トンづつ削減しなければなりません。また、東京都環境基本計画の目標で2030年までに温室効果ガス2000年比30%削減と書かれています。2000年の排出量は5889万トン。東京都の目標年の排出量は4122万トン、毎年59万トンづつ削減しなければなりません。2005年排出量6167万トン、2000年比278万トン増加、2010年5874万トンで2011年比278万トン増加、2013年6548万トンで2011年比440万トン増加と大幅な増加の年があります。確実に削減させる政策を取らなければなりません。
東京都で最もCO2を排出する港区は2013年432.4万トン。パリ協定に基づくと2026年の目標は327.6万トン。削減量105.8万トン、毎年8万トンづつ削減しなければなりません。2014年は前年比13.8万トン削減、2015年は前年比22万トン削減、2016年は前年比15.7万トン削減。良い傾向と思います。一方でオフィスビルやマンションがますます増加傾向にありますのでうっかりするとCO2が再び増加する恐れがあります。しっかりとCO2削減を管理する必要があります。