多様性社会を目指すと「官」が提唱しています。結構なことですし本気でそう言う社会にならないといけません。日本政府、東京都庁など、本気か?と考え込んでしまいます。欧米の実態を政府の役人や東京都庁の役人が分かっているのか、疑わしいです。アメリカの友人、知人、ノーベル賞や様々な報道で知らされる方々の経歴を見ると、日本と全く異なることが分かります。一例です。1990年代ニューヨーク市の治安政策に貢献し高く評価されているブラウン氏の経歴です。氏は1990年から1992年までニューヨーク市のポリースコミッショナー(警察委員長、東京都であれば公安委員長)を務めた方です。まず学歴です。
氏はオクラホマ州の貧しい黒人家庭の生まれです。フットボール選手の奨学金をもらいカリフォルニア州立大学フレスノ校入学しました。日本のスポーツ学生と異なるのはアメリカでは学業成績が良くないと奨学金が停止になります。日本の大学ではスポーツの学生はスポーツだけやってろ、授業は適当にというのが実態ではないでしょうか。力道山の敵役だったアメリカ人プロレスラーのデストロイヤーはシラキューズ大学大学院でスポーツ科学の修士号を持っています。日本のレスラーで修士号を持っている方はいないでしょう。学問とスポーツの両立です。
ブラウン氏の学歴です。1960年カリフォルニア州立大学フレスノ校卒業(刑法)、1964年カリフォルニア州立大学サンノゼ校修士(社会学)、1968年カリフォルニア州立大学バークレイー校博士取得(刑事学)バークレー校は世界のトップクラスの大学ですから、ブラウン氏の大学、修士課程の成績は相当上位だったと推測します。次に職歴です。1960年カリフォルニア州サンノゼ市警察官(23歳)、1968年サンノゼ州立大学助教授(31歳)、1968年オレゴン州ポートランド州立大学 法学部長就任(31歳)(同じ年にスカウトされたのでしょう)、1972年ハワード大学公共政策学科長就任(35歳)、1974年オレゴン州マルトノマ郡保安官(37歳)(市が組織されていないところの警察官は保安官と称します)、1978年ジョージア州アトランタ市警察委員長(41歳アメリカ初の黒人警察委員長)、1982年ヒューストン市警察部長45歳、ヒューストン市で初の黒人警察部長、1990年ニューヨーク市警察委委員長 53歳、ブラウン委員長の頑張りで治安改善の成果でブラウンの人気が出たため、任命したニューヨーク市長ディンキンズ(黒人)から嫌われ1992年辞職、その後、ライス大学公共政策大学院教授、その後、ヒューストン市長。現場と理論の二刀流で、また、貧しい黒人家庭出身ということで社会の底辺を知っている素晴らしい、警察官、教授、市長でした。
こうした経歴は欧米では普通です。大統領も常に新人が突然現れアメリカ、世界をリードします。大学教授しかり、会社経営者しかりです。日本では、次の首相候補、次の社長候補、次の次官、次の教授候補など決まっています。社長や次官になった頃は出世競争に疲れ切ってしまうかもしれません。日本の勤労者は典型的に22歳で卒業、その後就職、定年の60歳まで勤務。一斉試験、一斉入社、一斉退職、他の組織に転職することは例外的ですし、組織に途中から入ることもほとんどありません。政府や都庁が多様性ある社会と提唱しますが、自らの組織、自らが多様性と正反対の画一性の中で生きている方が「多様性」の社会を理解困難と思います。これが本当の問題です。