1967年早稲田大学建築学科に入学し、将来アメリカに留学しようと目標を立てました。しかし、経済的に不可能であり、奨学金を得るしかない、最も有力な奨学金はアメリカ政府が運営するフルブライト奨学金であることを知り、「フルブライト留学」を目標としました。
事前準備というわけで、1969年、早稲田大学の交換留学生としてアメリカ、オハイオ州にあるThe College of Woosterに留学しました。さらに、1971年、IAESTE(国際技術研修協会)の留学生としてスウェーデン、ストックホルムのカール・クリスティアン建築設計事務所に技術研修留学しました。また、客観的な実績を残せと指導教官穂積先生から助言をいただき、修士課程の2年間に、建築学会の設計競技に挑戦、建築学会の論文集や専門誌に寄稿しました。建築学会設計競技入選2回、建築学会論文投稿5本、専門誌への寄稿9本です。以下その実績です。
早稲田大学大学院修士課程の1972年から74年の間の実績リストです。1972年建築学会設計競技(農村集落計画)で入選、1973年建築学会設計競技(コミュニティホスピタル)入選。2回建築学会からデザイン賞をいただきました。
論文は、(1) オフィスランドスケープ研究、その1 実例を通してオフィスランドスケープの接点を探りその特質を考察する、日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)、昭和47年10月、(2)Field Research in Office Building for Environmental Design no.1 事務所建築における環境デザイン研究のためのフィールドリサーチ・その1 日本建築学会関東支部、第43回(47年度)学術研究発表会、(3)事務所建築における環境デザイン研究のためのフィールドリサーチ・その2、日本建築学会関東支部(47年)学術研究発表会、(4)事務所建築における環境デザインのためのフィールドリサーチ・その3、日本建築学会関東支部(47年)学術研究発表会、(5)オフィスランドスケープ研究ーその2、事務所建築における環境デザイン研究のためのフィールドリサーチ、日本建築学会大会学術講演梗概集(東北)、昭和48年10月。2年間で建築学会に5本論文を投稿しました。
さらに専門雑誌にも寄稿しました。早稲田建築1972年、Vol.2、No.4,「フィンランドの建築家レイマ・ピエティレ」、A+U(Architecture and Urbanism)1972年5月から10月まで海外情報、ジャパン・インテリア・デザイン1974年4月号「オフィスランドスケープを考える」です。こうした実績をアッピールしながらフルブライト留学の試験に挑戦しました。推薦状は、指導教官の穂積教授、ウースター大学の指導教官Arnold Lewis教授、スウェーデンの先生カール・クリスティアンソン氏(スウェーデン、インテリアデザイン学会会長)に書いていただき豪華な顔ぶれ。後で耳にしたこと、審査員5人が全員一致で原田を推薦して下さり、首席で合格したとのことでした。(principal candidateとして合格したと通知をいただきました)指導教官の穂積先生はじめ多くのご指導をいただいた方に感謝です。
一方、こうした学生時代の活動に理解をいただけず、私を後継の区長に引っ張り出した元区長S氏は留学の話をするなと区長就任後お説教(院政は敷きませんという約束でしたが)(以前、建築事務所の社長をしていましたでは区民への説得力がなく3度留学した挑戦心ある人物です、安心くださいとアッピールする意図でしたが)また、筆頭部長のN氏も原田の区長退任表明直後の2004年の春ごろ「フルブライト留学の話はしないでください」とお説教?私の人生観、前向きな活動実績に対し理解いただけず、残念でした。また、多くのフルブライト同窓生に対する侮辱でもあります。