2000年6月、元港区長菅谷氏の哀願と言ってもよいほどの要請を受け港区長選に出馬、就任しました。出馬にあたり菅谷元区長は「私は院政を敷きません。原田さんのお好きなように。」私は「まじめに仕事します。不正があれば自ら告発します。」が最初の約束でした。区長就任後、財政再建、20年来くすぶっていた土地問題を解決(増上寺南側の国際興業の所有地(現港区立芝公園)と浜松町駅前の港区所有地との交換)、危機管理担当部門の設置し警視庁から幹部を招聘、子育て支援センター設置など日本初の施策を作りました。一方、公共事業の際の官製談合、開発利権など様々な不祥事について耳にし、自ら監視、改革をしました。でたらめな積算書をチェックし(施設課長はじめ施設課職員はまじめな仕事をしていませんでした)、積算額を削減し、税金の無駄遣いを自ら質しました。不正について関係機関に報告もしました。
しばらくして元区長、一部議員(その中に官製談合の元締めもいました)などから「区長は建築の専門家だから、建築と都市計画について口を出すな、教育と福祉だけやっていりゃーいいんだ。」と理解不能で、攻撃的に言われました。教育と福祉について言えば、私は海外留学3度の経験から教育に対する意識、思いは誰よりも強く、また、福祉の本、論文をいくつか書いていましたので、私は教育、福祉のプロと言えます。元区長も私に攻撃的な意見を言う議員も、福祉教育について専門的な知見を持っていません。また、全国的に見ても福祉教育について専門書を書いた首長や議員はほとんどいないと思います。私は不正と戦いました。元区長氏は最初「原田さんのお好きなように、院政は敷きません。」と発言をすっかりお忘れになったのか、「原田は俺の言うことを聞かねー」とあちらこちらで発言していると耳にしました。
2003年12月(任期半年前、次の選挙を検討する重要な時期)、港区政を水面下で動かす麻布十番の小林石材(区役所の幹部人事、公共事業の業者決定など様々な分野で口をはさむ人物、多くの区議の面倒を見ている。元区長氏からの紹介だから交流せざるを得ない状況)の社長小林氏が私の妻を呼び出し「次の選挙に対抗馬が出ますよ(出します)、原田さんが選挙にお金を使い、選挙に敗れ、会社も傾いたらどうするのか」と伝えました。身を引け、選挙に出るなと言う恫喝です。元区長菅谷氏との盟友関係ですから、元区長菅谷氏からのメッセージでもあります。
現職は選挙に強いし、まじめに仕事していますから区長としての減点もありません。しかし、彼らは私が選挙に出ると、おそらく謀略情報を流したりすることでしょう。また、当時、飯倉小学校の廃校手続きを、教育長が、私の命令を無視し勝手に進め、大きな(当時最大の)問題が発生しました。原田の評判を傷つけることが狙いであることは明らかです。私は元々政治家になることに関心はなく、社会貢献の気持ちで区長を引き受けました。出馬すると泥まみれの選挙戦になると思い、無用な争いを避けるため、任期いっぱいで退任することとしました。出てきたのが私の時の人事課長、武井さんでした。私が本当の退任理由を公表したら、野党系の候補が勝利したかもしれません。武井さんはバツが悪いと思ったか私に出馬の挨拶はナシでした。武井さんは管理職(課長)試験合格年齢は42歳、東京都庁では普通の管理職、局長級は30歳前後で課長試験に合格します。港区政(地方政治)はこのレベルでした。