甲子園中止・音楽コンクール中止・高校総体中止。青春時代に燃焼する目標。理解できない元港区長S氏や幹部。

コロナウィルス蔓延で甲子園大会が中止となりました。ニュースで野球球児達が高校で監督や指導教員から中止決定の報告を聞き多くが悔し涙を流している映像を見ました。その他、高校総体、音楽コンクールなど軒並み中止です。高校生にとり青春時代のひと時を大きな目標に向かい全力をかけていたことですから、本当に悔しいことと拝察し、気の毒に思います。世の中、人生、こうしたこともあると大きな勉強ととらえ、前向きに次の目標に向かい努力を続けてほしいと祈っております。私事ですが、1967年、早稲田大学入学後、「将来学問の拠点であるアメリカに留学し世界のトップの指導者の下で勉強しよう。」と目標を立てました。

大学1年生から英会話の勉強を始めました。当時は日米の経済格差からすれば(日本の大卒の初任給2万円台、アメリカは18万円、飛行機代はロサンジェルス往復で25万円くらい、授業料は早稲田大学11万円に比べアメリカの大学は100万円くらい)奨学金をもらわなければ留学できません。アメリカ政府が主宰する「フルブライト奨学金」という制度があることを知りました。また技術研修留学で「IAESTE」という制度があることを知りました。1年生、2年生の時の一般教養で語学はほぼ満点でした。脇目も振らず語学と建築の専門の勉強に専念しました。黒川東京高検検事長は麻雀狂いだったようですが、私は麻雀など一切しませんでした。

建築学科の指導教官穂積教授からフルブライト留学の前に「お試し留学」ということで早稲田大学の交換留学に挑戦したらとご助言をいただき、3年生の時、早稲田の姉妹校の一つ、オハイオ州のウースター大学に1年間交換留学をしました。4年生の時、技術研修留学IAESTEでスウェーデンのデザイン事務所に技術研修留学しカール・クリスティアンソン氏から新しい、日本にないデザインの概念を学びました。氏は後年スウェーデンのインテリア建築家協会長に就任した大物です。必死に勉強しました。与えられた学校の課題は大変厳しかったですが、教授や友人たちの協力もありなんとか成果を出すことができました。

2度の留学を実績(その他、建築学会にいくつか論文を寄稿、建築学会から2度設計競技でデザイン賞を受賞)に本丸のフルブライト留学試験に挑戦、幸い合格し、1974年念願かないヒューストンにあるライス大学大学院に留学しました。指導教官は後年ハーヴァード大学の大学院長に就任するピーター・ロウ、修士号審査教授は後年MITの大学院長に就任するアデール・サントス女史。穂積教授の的確なご助言、両親からの支援で私の青春時代の大きな目標を達成することができました。

2000年選挙の1か月前突然当時のS区長から懇願され、2001年大学教授に内定していましたが教授ポストを辞退し、区長選に出馬、当選、区長に就任しました。私のセールスポイントは3度の海外留学で、挑戦心をもっていること、最先端の学問知識を持っていることと訴えました。「建築事務所の社長をやっていました」では区民も区役所職員も区長として大丈夫かしらと不安に思うでしょう。しばらくし、S元区長から「海外留学の話をするな!」とお説教がありました。後年、港区役所のN政策経営部長から「フルブライト留学の話をするな!」とお説教がありました。人生目標は様々です。某幹部達からS区長は学歴コンプレックスがあると聞きました。S区長は中卒で港区役所に入庁(夜間高校、夜間大学卒)で立身出世の方、港区のことを知り尽くしている方です。立派なご経歴と思います。私は私。私の青春時代の目標について否定したり、お説教するのは筋違いです。S元区長もN部長も「デモシカ」公務員で青春時代大きな夢、目標を持たず、公務員を続けてきた方とお見受けしました。港区は武井区長が、また、公式にも「異文化理解」を標榜しています。実態は区長は異文化を理解できず、口で甘くささやいているだけでしょう。様々ある人生を、また、青春時代の目標を否定するなどの行為は許されないこと、人権侵害です。

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