環境激変順応型人生、多くの人生を体験

私の人生は「環境激変順応型人生と言えます。一般的には、学校卒業し、会社(役所)に就職し、定年まで勤務するという人生が多いです。

私は若い時、3度の海外留学とその後、港区長を体験しました。1969年、20歳、早稲田大学3年生の時アメリカ、オハイオ州にある姉妹校のThe College of Wooster交換留学しました。人口二万人の町にあり1500人の全寮制の大学です。プレスビテリアン(長老派教会)の設立です。到着し、日本人は私一人、ほとんど白人の学生、一部に黒人、留学生。勉強方法、教授や学生との付き合い方、日本と全く異なります。寮生活も全く異なります。そうした中、多くの教授、友人と親しくなることができました。今でも何人かとクリスマスカードを交換しております。次は1971年、スウェーデン、ストックホルムのカール・クリスティアンソン建築事務所に技術研修留学しました。周囲はスウェーデン人を中心にフィンランド人、ドイツ人です。スウェーデン人はアメリカ人気質とは全く異なりますが、スタッフとすぐ仲良くなり、楽しい研修生活でした。次は1974年フルブライト奨学金をいただきアメリカ、ヒューストン(人口規模全米第4位、当時は第6位)にあるライス大学建築大学院に留学しました。学生規模4000人の少人数の総合大学です。建築大学院の学生規模は75名。大学院長(クレイン氏)、科長ミッチェル氏、指導教授ピーター・ロウ氏等の教授陣に面倒みていただき、多くの友人ができました。知らぬところで知らぬ方と仲良くするコツを自然と身に着けたと思います。別の言い方からすれば、3度も異なる留学試験に挑戦したということです。その都度、書類作成など大変な準備と面接試験の緊張がありました。

平成12年6月、突然港区長に就任しました。全く知らない政治の世界です。議場での演説、答弁、様々な団体での挨拶、3000人組織の管理、上記のように、3つの全く異なる世界に順応してきましたので、自分なりの方法で多くの方と親しくなりました。きつい表現かもしれませんが、同種の世界で、ぬるま湯的な環境で、井の中の蛙のような世界で、長年生きる人生より、何倍もの多くの友人を作れ、全く異なる人生を楽しむことができたと思います。後輩たちにこうした人生を勧めたいと思います。区長就任後、3度の留学体験のお話をしました。「挑戦心がある」「異なる環境でも順応できる能力がある」「異文化理解ができる」などアッピールしたいと思いました。小さな設計事務所の社長をしていましたでは「なぜ区長になったのか、どういう能力があるのか」区民は疑問に思います。残念ながら前任の区長や一部議員、幹部の方から「自慢話をしている」など誤解されました。一方でそうした挑戦心がない、留学準備の膨大な資料作成をしたことがない、新しいことを学ぼうとしない(たとえば英会話)方が、ヤッカミ、嫉妬の気持ちで嫌がらせを言ってきました。世の中によくあることです。港区は「異文化理解」を標榜していますが幹部たちで本当に異文化理解をしている人物は少数です。長年港区役所に勤務し同じ職場の同僚と付き合ってきて、社会に異なる価値観の人間がいること理解が困難でしょう。英語を話そう、学ぼうとする幹部もゼロです。もっと異文化に挑戦しましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です