港区との赤い糸、不思議なご縁

昭和54年(1979年)父が所有する港区のマンションに結婚を機に引っ越しました。港区民になりました。(マンションの賃貸料という形で父親に一定額支払い続け、相続の時は全く問題ありませんでした。こうした長期間の相続準備も大切なことです)

事務所を開設するにあたり、当初、知人の後楽園の事務所を間借りする形で仕事をしましたが、しばらくして早稲田の先輩で六本木で不動産業をしている方に「とにかく安い事務所(たとえば町工場、駐車場のような空間で結構ですと言って)を探してください」とお願いし、現在の六本木の事務所をご紹介いただきました。港区内事業者になりました。

昭和58年(1983年)港区役所企画課の副主幹(課長級)のTさんという方から自宅に電話がありました。お会いすることになりました。「港区長の私的な諮問機関として港区まちづくり懇談会、座長は世界的建築家の丹下健三氏、という組織がありますが、メンバーは相当高齢で、区長から若い区民を入れろと指示があり、若い人材を探した結果、原田さんにお願いすることにしました。」という内容でした。名簿を見て驚きました。丹下先生はじめ港区に住まう著名人ばかりです。恐縮しながらお受けさせていただきました。2か月に1度の開催です。委員報酬は、著名人を対象にしていますの当時破格の3万円。若造の私にとり大金です。当時の区長の死去に伴い懇談会は解散。その後、港区役所で様々な公職を依頼されました。40代(1990年代)になり、港区役所で頼まれる委員の数が増えました。野党議員と直接対決する機会も増えました。港区役所から事前の説明を受けませんので、当日ぶっつけ本番の議論でした。何でも反対する野党議員の委員に積極果敢に反論、区側の政策提言に対し前向きに発言するスタンスは当時の港区役所の幹部たちからは結構頼りにされたと思います。

その時の区長が突然引退表明、後でわかったことですが、評判のよくないいわゆる利権屋議員が出馬準備をする中で、適当な候補者が見つからず、港区のいくつかの委員会で元気に発言していた私が候補に指名されました。目に見えない赤い糸、不思議なご縁を感じます。目に見えない糸、ご縁を大切にしましょう。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です