オリンピック裏話、パイオニアから聞いた話

熱いリオオリンピック、パラリンピックが終わりました。そのたびに高校、大学時代にすばらしい指導者から聞いた話を思い出します。1964年東京オリンピックの時、私は高校1年。体育の講師はK先生。小柄で筋肉質、謹厳実直な雰囲気でした。体操の専門家です。ヘルシンキオリンピックの時日本体操チーム監督でした。昔話を語りました。当時は日本は陸上、水泳全盛時代。強豪チームには現地で日本食の差し入れがありました。しかし注目されていない体操チームには差し入れが回ってきません。若手、小野喬はホームシックにかかりました。みそ汁を飲みたい。みそ汁を飲めない悔しさがその後の成長に影響を与えたのでしょう。

1964年東京オリンピックに向けての体操チームの戦略。当時体操の技術はA,B,C難度と3段階。C技術だけでは強豪ソ連チームに勝てない。Cを超える技、すなわちウルトラCの技術を見せなければならない。K氏が「ウルトラC」という言葉を創作したそうです。結果日本体操チームは金メダルを獲得しました。

K氏は東京オリンピックで体操の審判員を務めました。ニュースで見ました。あん馬の試合で優勝候補遠藤があん馬にお尻をつけてしましました。ところが遠藤は優勝、金メダル。後でK氏曰く、優勝は遠藤に決まっていた、と。強豪ソ連チームは開催国日本に政治的配慮をしたのか?でも素晴らしい日本チームの活躍でした。体操王国日本は現在まで引き継がれています。

高校時代の特別講義で1932年ロサンジェルス・オリンピック大会で初めて体操選手として出場した本間氏の話を聞きました。体操のGymnasiticsを翻訳で「体操」と訳され選手団に渡されました。H氏は翻訳を見て「ラジオ体操を美しく演じればよい」と思いました。試合場でラジオ体操を演じ、観客から失笑が聞こえたそうです。競技の体操とは全く異なります。映像もない、その時代の翻訳のむずかしさです。

早稲田大学入学し一般教養で体育の授業4コマを取らなければなりません。一つは保健体育で織田幹雄氏の授業を取りました。氏は1928年アムステルダム大会で三段跳びで金メダル。日本人初の金メダリストです。語り口は静か。「学生時代、陸上部に籍を置きました。誰より早く競技場に来てグランド均し。誰よりも遅くまで練習。最後のグランド均し。」気持ちが大切と思いました。後年、メルボルン大会では朝日新聞社の特派員として取材。「当時ですから日本全体が貧しく、スタッフがいない中、一人ですべてをこなしました。取材、原稿執筆、送信、ホテルで自分の衣服の洗濯、寝るのは午前2時3時でした。」凄い根性と思いました。

昔のオリンピックを経験した方々のお話を直接聞けたのは、今となっては幸せな学生時代でした。勇気をいただきました。

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