政策論文、たくさん執筆しました。これからも構想中です。

若い時から政策提案論文を書いてきました。相当数になります。今年の春は「アメリカの環境政策の経緯」について発刊予定です。昨年は「東京都とニューヨーク市の監査報告書の比較分析」、一昨年は「ニューヨーク市の観光政策と都市開発政策」について書きました。現在は来年に向けて「ニューヨーク市の治安政策」について構想中です。ニューヨークタイムズの記事を30年分分析しています。

「港区の環境アセス制度」、「港区の附置住宅制度」、「品川駅と田町駅の東西自由通路の整備方式」、「北区の景観アドバイザー制度」、「密集地区の居住環境の快適性指標」(これを博士論文にしました)、「23区のバランスシート分析とその活用方策」、をこの20年間に書きました。

さらに、「地域福祉制度」、「コミュニテイカレッジの提案」など30年、40年近く前に書きました。それぞれ1万字から6万字の量です。上記の分野に関心を持つ方が参考にしてくだされば幸いです。

論文執筆は全て、研究費はゼロです。この点、大学の研究者は参考としていただくとよいと思います。また、政治にかかわる方も参考にしていただけると幸いです。区長時代、論文執筆に2,3の区議からイチャモンがありました。港区議会の保守系野党のK氏、文書能力はありません、しかし、私の論文執筆活動にイチャモンを付けてきました。文書を書けないことから私へのあてつけ、嫌がらせだったと思います。また、自民党のK氏、区長になりたかったが、引きずり降ろされ私が突然区長に就任した恨みをずーと抱き続け、私の論文執筆にいつもイチャモンをつけました。本来、行政の幹部も議員も政策論文を書くべきです。

これからもいくつか気になるテーマで小論を書き続けるつもりです。ニューヨーク市の政策、ヒューストン市の政策(都市の発展の理由、1970年全米6位から現在4位、間もなく3位に発展)、若い時見た著名建築の設計理論など。特に海外については私の得意とするところですので、可能な限り書いて残したいと思います。今となっていは論文執筆はボケ防止が大いな意味を持つようになりました。

 

 

六本木商店街フラッグデザインコンテスト、多様な提案、多様な入賞者

六本木商店街では地域の活性化のため多くの事業をしていますが、商店街の照明灯に飾るフラッグのデザインコンペを毎年実施しています。今年の入賞者の授賞式は新年会の席で実施されました。今年のテーマは「よそおい」。審査員は六本木にご縁のある日本の代表的デザイナーの3人。葛西さん、廣村さん、柴田さん。入賞者の多様性に驚きでした。高校生からプロまで、また、台湾、タイの外国勢も。地方都市では四国から、北海道など遠方からの参加に敬意です。若い方にとり多いな自信となり、また、大いなる実績となると思います。参加者の益々のご活躍をお祈りします。入選作は近々、実際にフラグとして制作し、照明灯に吊り下げられます。六本木を歩く際、ぜひ、お楽しみください。

私事ですが、23歳と24歳と修士課程の学生時代、2年連続で、日本建築学会の設計競技に入賞しました。その時の入賞メダルは現在も弊事務所においてあります。大変な自信となりました。励みとなりました。履歴書に公式に記載できる経歴となりました。また、こうした実績を積み重ねることは大切です。

地下鉄門前仲町駅トイレ、都営地下鉄の勝ち

地下鉄門前仲町駅を時々利用します。親類が住んでおります。東京メトロの門前仲町駅と都営大江戸線門前仲町駅と2つあります。両方の線を使います。トイレの質の違いが判りました。門前仲町駅は都営地下鉄の勝ちです。都営大江戸線駅構内のトイレはウォッシュレットトイレです。東京メトロのトイレは従来型のトイレです。都営地下鉄門前仲町でウォッシュトイレを導入した理由、経緯は不明です。導入が大いに拡大するとよいと思います。時間とマンパワーがあれば全駅のトイレの状況を調べてみたいと思います。すでにどなたか調査されたかもしれません。数年前、某自治体の公衆トイレのデザインをしました。これからトイレの快適化、ユニバーサル化は大きな課題です。

今ウォッシュレットトイレは相当普及してきました。ウォッシュレットトイレについて私が最初に聞いたのが1973年早稲田の大学院で学んでいた時でした。同級生のYさんが「父親が商社勤務で、海外で用便の後シャワーで肛門周りをきれいに清潔にしてくれ、さらに温風で乾燥させてくれる道具が開発されつつある。」と私に語りました。私は「本当?」と半信半疑でした。今や日本がウォッシュレットトイレ大国となりました。

早実、来宮さんのキャンプ入り、楽しい話題に水差すつもりはないですが。

野球は新人選手が球団の宿舎に入り、自主トレ。特に、来宮さんが注目され、毎日報道されます。プロ野球の楽しい話題です。しかし、水差すつもりではありませんが、気になることがあります。1月から学校を休み、3学期の成績はどうなるのか?心配です。これまで、毎年同じ事例があったとおもいますが、特に注目されている選手なのでなおさら気になります。早実で、もし私が在籍し、3学期全休したら、おそらく成績は不合格となると思います。早実はどのような基準で来宮さんを卒業させるのでしょうか?また、マスコミは来宮フィーバーですが、学校を全休して大丈夫かと指摘するマスコミがいないのが不思議です。

多くの問題指摘を耳に目にした港区議Y氏、幹部はペコペコ

ベテラン区議Y氏について職員から問題指摘を耳にし、また、私自ら目にもしました。問題レベルのマナー、モラルの議員に、ベテランだから、あるいは、「先生」と呼んで適当におだてて事態を荒立てないようにしようとしたのか。

ある職員から、今から30年前、税務課でのやり取り。Y議員は住民税を滞納し、督促したところウィスキーをカウンターに持ってきて「これで何とか頼む」と言って、これで終わりだったとのこと。もみ消しだったのでしょう。

私が区長時代、目撃したこと。氏が属する会派の懇親会でY議員はホステスのスカートに手を入れていました。驚きました。また、新幹線品川駅開業パーティで、来賓の国土交通省大臣政務官がご挨拶をしている最中に野次を飛ばしました。一瞬、政務官は挨拶が止まりました。たまたまそばにいた品川区長T氏が「やめなよ」と注意。政務官のごあいさつの後、私が政務官に謝罪、「港区議が失礼をしました」、と。品川区T区長にもY議員についてマナーの悪さなど私から説明しました。

元港区長S氏は「Yは俺の盟友」と発言していました。S区長時代はY議員はやりたい放題だったのでしょう。Y議員は私に「俺は早稲田大学の政経学部と千葉大学の工芸学部を卒業した。」と発言。しかし、氏の日頃の発言内容からすると???一般的に、会話の中で学生時代の思い出、指導教官の授業内容、人柄などよく話題に出ます。Y氏から一切そういう話、キーワードはありませんでした。政策論もナシ。ほら話、ずるい話がほとんど。この程度の議員に幹部たちは「先生、先生」とぺこぺこ。私はクールに対応していました。

新年の六本木風景、区長や麻布警察署長はご存知か?

1月2日から活動開始。六本木の事務所に出勤しました。朝の9時過ぎです。六本木交差点の5丁目側の角と3丁目側の角(蕎麦屋さんの前)に3,4人の集団で中国人女性の客引きが立っています。朝からです。東京タワー方向へしばらく進むと、また、中国人女性の客引きが3,4人づつ立っています。その眼は、また、うろうろしている姿は獲物を狙う野獣のごとし。5丁目のロアビルの交差点でも両サイドに複数の中国人女性の客引きが立っていました。金曜日、土曜日、日曜日の朝の見慣れた光景でもありますが、正月明け2日の朝からです。驚きました。

また、正月明けということもありますが、ごみ袋の不法?(不適切放棄)があちらこちらにありました。驚きました。

こういうタイミングこそ、区役所や警察は適切に対応すべきです。

ニューヨーク市など、大都市のスラムなど含めこの50年間に何回も視察しました。「壊れ窓理論」があります。小さな問題を放置すると、どんどん雪だるまのように広がり、手が付けられない状態になることです。この数年の六本木の状態はニューヨーク市のスラムを彷彿させるといってもよいと思います。こうした時こそ、ゴミを適切に処理し、まちをクリーンにすることが必要です。また、地域課警察官を動員し、路上の中国人客引きを取り締まらなければなりません。

武井区長は、公式の席で「〇〇しています。」と挨拶します。確かに六本木で「客引き禁止」と看板が出ています。問題は実効性です。英語で2㎝各程度の大きさの文字でも客引き禁止と書かれていますが、何の実効性もありません。武井区長は単にアリバイ作りをしているだけです。また警察署長も1年で交代ですから、微妙な環境悪化の状態を気づくことは無理ですし、自分の任期中は穏便にと異流れに走る傾向にあるのでしょう。この10年、20年見ると、大きく悪化しています。それを気が付いているのでしょうが、具体的に改善の実効をしないことが問題です。

成人式での挨拶、娘の前で。

本日は成人式。港区長時代、たまたまの年回りで、長女、次女が港区の成人式に出席しました。長女の時は「お父さんの挨拶など聞きたくない」と出席を嫌がっていました。妻が説得したようです。式場の入り口で出席者全員に「おめでとうございます」とお出迎えしましたが、ほとんど返事がなく、一緒に立っている議長と、「返答がないのは問題ですねー」、とつぶやきあいました。出席者の1000人に「おめでとうございます」と挨拶するのは結構疲れました。会場に入場する娘にも恭しく「おめでとうございます」と挨拶の言葉を投げかけました。大騒ぎになった際のためにと娘は前のほうに居てくれたようです。そうなった際の父親のなだめ役です。

次女の時は、元同級生から「あれは(区長)はお前のお父さんなんだろー。」と大勢から冷やかされたそうです。嫌だったそうです。また、「区長の挨拶は長いなー」と友人からコメントがあったそうです。もっとも、娘曰く、ほとんど出席者は真面目に挨拶を聞いていなかったそうです。 某町会長の孫娘がロサンジェルスから出席。英語で会話しました。思い出話です。

様々な都市・建築の視察。

学生時代から区長就任前まで多くの自治体を訪問、所謂行政視察、建築視察をしてきました。恐らくその件数は、東京都庁や区役所の職員の視察件数を圧倒する数と思います。思い出しながら書きます。県庁訪問では、北海道庁、秋田県庁、埼玉県庁、群馬県庁、栃木県庁、茨城県庁、福岡県庁、大分県庁、沖縄県庁など。

政令指定都市では、札幌市、仙台市、千葉市、横浜市(国際会議を開催しました)、川崎市、大阪市、神戸市(国際会議を開催しました)、福岡市、北九州市(審議会委員を務めました)。

そのほかの自治体では、東京都内では目黒区、大田区、品川区、板橋区、墨田区、世田谷区、新宿区、江東区、足立区、北区、山形県酒田市、山形市、沼津市、岩手県北上市、長野市、飯田市、埼玉県浦和市、川口市、川越市、入間市、上福岡市、越谷市、蕨市(審議会委員を務めました)、高崎市、福島県三春町(町長が知人でした)、船橋市(基本構想策定に参加しました)、浦安市、静岡県掛川市(審議会委員を務めました)、奈良市、大津市、金沢市、小松市、長崎市、福岡県椎田町、宮崎市、都城市、熊本県水俣市(視察を朝日新聞のコラムに寄稿しました)、新潟県中里村(浅草の神輿を運びイベントを開催しました)。

海外では、ニューヨーク市(朝日新聞に論説記事を寄稿し、また、専門誌に寄稿しました)、ロサンジェルス市(視察に市警がヘリコプターを出してくれました)、ヒューストン市、ボストン市、ニューオルリンズ市、ブエノスアイレス市(国際会議の際市長宅も訪問しました)、ベルリン市(都市計画局長に案内をいただきました)、ヘルシンキ市(都市計画局長に案内いただきました。また、氏は1998年港区を訪問、私が案内しました)、パリ市(元建設大臣に案内していただきました)、ロンドン市、アムステルダム市、ロッテルダム市、などまだまだありますが。

単に、建築などの視察を含めるともっとはるかに多くなります。

以上のように、港区長就任前、多くの県庁、市役所、海外の市役所を訪問、視察、資料提供を受け、勉強しました。今でも膨大な資料をファイルしてあります。これらの体験は港区長就任後大変役に立ちました。

起業、設計事務所開設。31歳で。約40年の事務所経営。

1980年4月31歳で起業しました。特に仕事の当てがあったわけでもなく、また、経営戦略があったわけでもありません。ただ、自分の意志で仕事をしたいと思いました。早稲田大学時代の指導教授穂積信夫氏と実務の恩師の菊竹清訓氏の教えで、何でも書き残せ、言い続けろ、書き続けろを実践してきました。(港区では一部の区議からなぜ原田は原稿を書くのかと私にとり意味不明な質問、批判がありました。ヤッカミ嫉妬の議員と物を書く能力に欠けた議員からの発言でした。)菊竹先生のご紹介で1980年日経サイエンスに「アメリカのリバーフロント開発」(テキサス州サンアントニオ市の事例)について寄稿しました。また、アメリカの都市開発やコミュニティ論について専門書や新聞の論説に寄稿しました。すると、東京都建設局から職員研修講師の依頼がありました。最初の仕事です。翌年は東京都の職員研修所で「アメリカのコミュニティカレッジ」について半年間の長期研修講師を依頼されました。

「専門書に寄稿すること」は大切です。影響力があります。自らの考えや知見を整理、公表することは大切です。

翌年、友人から某区にある都営団地の建て替え計画について周辺のまちづくりの観点から検討してほしいと依頼がありました。数年後、実施設計の仕事につながりました。

1985年頃東京都庁の職員で私の小論をたまたま読んでくれた方から電話がありました。原田さんに仕事のことで相談に乗ってほしいとのことでした。また、同じ頃、茨城県知事からお声がかかり、知事の前である政策についてご進講させていただく機会がありました。私の原稿を読んでくれた茨城県職員の紹介でした。

原稿をどのように発表するかですが、建築学会なら「梗概論文」は学会員なら誰でも寄稿できます。大いに活用したらよいと思います。5年くらい書き続ければ結構な成果となります。外部に堂々とアッピールできます。依頼があれば何でも積極的に書いたらよいと思います。

創作活動するなら、大手の組織にブル下がるのではなく、自ら起業し、自らの発想で仕事をしたらよいと思います。振り返ると事務所設立し、事務所を運営し約40年経過しました。仕事を出してくださった発注者の皆様、仕事を直接させてくれた仲間に感謝の気持ちでいっぱいです。

港区長秘話98、元区長S氏語録その2

元区長S氏の語録その2です。

最初の約束です。以前も書きましたが、平成12年4月に6月の区長選挙を目前にし口説かれたセリフが「問題議員が区長選に出馬しようとしている。そいつは外す。原田さんに区長になってもらい、きちんと仕事してほしい」でした。私は最初お断りしたものの、しばらくし受諾し条件として「私は真面目に仕事します。もし不正を見つけたら告発します。」と発言しました。その他、たとえば後々面倒見てくれ、とか、一切そうした条件は出しませんでした。S氏は「原田さんのお好きなように。私は院政を敷きません。」でした。しかし、区長就任直後から「原田は俺のやり方と違う。」という声が聞こえてきました。

その後の年のS氏からの年賀状に「初心忘れるべからず。」と書いてありました。私は初心通り、かつ、条件で約束した通り真面目に仕事をしていました。氏の発言は矛盾していました。

また、数人の議員たちに「原田は俺の言うことを聞かねー」と言っていると聞きました。私にとり意味不明、理解不能でした。

平成16年6月区長退任後、最初にしたこと、夫婦でS氏夫妻をとある料理屋にお招きし「区長在任中大変お世話になりました。ご指導いただきありがとうございました。おかげさまでよい成果を出すことができました。」と御礼を申し述べました。氏から特にねぎらいの言葉はありませんでした。本来なら、全く行政、政治の経験もないのに、全く異なる環境で大変でしたね、ご苦労様でした、などのお言葉があるかと思いましたが、何もありませでした。氏からは単なる世間話で終始しました。

私はゼロから再出発です。起業です。