六本木3丁目、夜、歩道に5名女性の客引き、武井区長は自ら調べよ

6月12日(火)夜9時10分、仕事を終え、六本木5丁目交差点から、外苑東通りを六本木交差点方向に、3丁目側の歩道を歩きました。六本木3丁目13番あたり、歩道上に若い女性が5名客引き中。私にもちらしを手渡ししようとしたので振り払いました。大声で叱りつけてもよいのですが、本日は疲れたので黙って歩き続けました。武井区長に時々投書します。返事ありません。口で「客引き防止対策します」と挨拶で発言します。アリバイ作りでしょう。現実は上記の状態です。武井区長、一度ご自身の目で確認してはいかがでしょうか?いつも同じ挨拶を聴いているとむなしくなります。

港区役所発行の人口推計報告書のおかしな記述、幹部はしっかりチェックすべき

時々、議員などから区政の報告書をいただき、勉強のため読むことがあります。平成23年ですからだいぶ以前の報告書ですが、たまたま書棚にあったのを引っ張り出し、改めて読み驚きました。率直なところ中学生の報告書のような文言です。港区人口推計結果です。一例です。

(1)8ページに(1)将来人口推計結果の3行目で「今後全ての地区において増加することが見込まれている」と記述されています。図表11を見ると増加傾向にあるのは芝浦港南地区と芝地区の2地区で、高輪地区、麻布地区、赤坂地区は減少と横ばいです。事実と反する記述です。???課長も部長も読んでいないのでしょう。副区長も区長も真面目に読んでいないのでしょう。

(2)9ページで図表13年齢三区分別の構成比(各地区別)では「年少人口、老年人口の割合が増加し、生産年齢人口の割合が減少する見込み」と記述されています。図表からはその通りですが、特に芝浦港南地区では割合は減少しても分母が異なりますから生産人口は平成23年74.2%、平成30年69.6%ですが、絶対数は33,589人から36,322人に大幅に増加します。統計を読み切っていない、分析不足です。大学のレポートなら失格です。

このような報告書を読まされると、他の報告書の分析は大丈夫かと心配になります。区長、副区長、しっかりチェックしてください。

 

港区のエレベーター事故の反省から安全の日。安かろう悪かろう契約も続いています。

2006年6月3日港区の区立住宅でエレベーター事故で何ら落ち度のない住民の高校生が亡くなりました。なぜか和解に時間を要し(本来港区は直ちにご遺族に謝罪をし、補償をすべきでした)昨年11月和解成立しました。和解に伴い6月3日を安全の日と定め施設の安全に気を配ることは結構なことです。こうした事故が起きないようしっかりと区長以下職員は緊張感を持って対応していただきたいと思います。

エレベーター事故のそもそもの原因はメンテナンス業務の手抜きでした。予定価格400万円のメンテナンス費に対し、入札で当該のエレベーターメンテ会社が1/4の価格の100万円で落札し、手抜き作業をしました。本来、発注者はそのような額でまともな仕事ができないでしょうと疑問をぶつけ、場合により、再入札するとか、メンテ作業中の監督を厳しくするなどすべきでした。発注者、その部門の部長、副区長、区長達はこうした分野の全くの素人。その後、プロポーザルで(私が区長時代採用した契約方法ですが)特定のメーカーのエレベターを採用しました。最初からそうすればよかったのにということです。

契約システムの不備は現在もあります。英語の翻訳業務です。「安かろう悪かろう契約」です。納品成果を判断できる担当者、幹部がいません。これも重大問題です。私の妻は元通訳、翻訳者。今でも通訳、翻訳会社に登録し、時間がある時は翻訳のアルバイトをしています。ある時斡旋会社から連絡があり「港区からの仕事ですが日本語から英語への翻訳をしてほしい。」と依頼がありました。翻訳の報酬は1文字何円と経験年数などで相場が決まっております。斡旋業者から提示された報酬は妻が通常いただく1/4でした。これでは無理と断ったそうです。上記のエレベーター事故の時の契約と全く同じパターンです。その後安くてもやりますという経験が十分でない方が仕事をしと思います。その結果の英文の出来上がり状態、私は確認していませんが、おそらく不備だらけだった恐れがあります。(知人のアメリカ人、留学経験者の日本人から港区の英語はおかしいと聞くことがあります)その額ではまともなレベルの翻訳者は作業できません。担当者も幹部も副区長も区長も英語を理解しませんから、「変な英語」が港区の公文書としてまかり通ったと思います。

訪日外国人の増加、行政の観光政策は後手後手

東京都へ来訪した外国人観光客は2017年1377万人。率直なところ、東京都の観光政策が有効に働いたというより、国のビザ緩和策が最も大きな要因です。中国人、ロシア人などに対するビザの緩和が大きいです。また、途上国に対する緩和も訪日観光客増加に大きく寄与しています。観光客が増えるのはうれしいですが、観光政策は後手後手です。観光バスの駐車場は不足、ホテルは不足、案内板は不足、両替所も不足、ボランティアンの観光案内人も不足(私は諸外国を訪問した際の状況と比較してです)。急いで対応しなければいけませんが、東京都観光部職員というより東京都の職員は、海外旅行の経験、観光旅行の経験は限られているでしょうから、自ら何をしてよいのか意識の面で欠けているのではと思います。頑張ってください。必要であれば、私の体験談を無料でお伝えします。

S元港区長の回想録、事実と異なる部分、原田候補の経過、仕事ぶり

2011年3月元港区長S氏が回想録(青雲たなびく)を出版されました。ご自身の子供のころから港区職員時代、区長時代、その後のことについての回想録です。私を後継者にした部分で、事実と異なる記述が多くあります。明確にする必要があります。私は当時の記録をつけておりますので正確です。

(1) 393ページに後継者について「港区都市計画審議会の副会長だった澤田氏(元建設省住宅局長、住宅公団副総裁、日本建築センター理事長)に相談してみた」と記述されています。これは前後関係が逆で、事実でありません。

私が風の便りで聴いたのはN助役が後継候補に原田の名前を挙げたそうです。S元区長から電話があり、平成12年4月14日9時半区長室へ呼ばれ「後継者として出馬してほしい」と言われました。直ちにお断りしました。理由は4つ。「①翌年の平成13年大学教授に内定している。②そもそも政治に関心がない。③朝日新聞社長は友人、警視庁や警察庁の仕事をしてきてそうした分野に友人がおり、政治の胡散臭さ、特に港区で多くの委員を務めた結果、少なくも港区政に胡散臭さを感じており区長として区政に関与したくない、(不正を見たら朝日新聞と警察に報告しますとまでS区長に言いました)、④選挙に出る資金、組織もない。」と説明しました。S区長は「原田さんのお好きなように。私は院政を敷きません」でした。その後、私が相談者の一人として澤田氏に面会、「私が直接お断りするのは失礼と思いますから長老である澤田さんからS区長にお断りの使者になっていただきたい」とお願いし、澤田さんに後日区長室に行っていただき澤田さんが「原田さんは出馬しません。させません!」と明確にお伝えいただきました。その数日後、与謝野代議士の秘書から電話があり「ぜひ出て欲しい、再考してほしい。」と口説かれ、再度、S区長に面会しました。

(2)395ページ1行目選挙資金がないとの説明に「当面、私の退職金を出しておく」について、そうした発言はありませんでした。S区長は「選挙は組織がするから心配いらない。皆が応援する。」と発言でした。

(3)395ページ7行目「原田は名誉欲が旺盛でとてもうれしそうだった」は事実でありません。私は政治に関心もなく、一方、事情も分からず、これから何が起きるのか、ただただ「悲壮感でいっぱい」でした。しかし、表向きライバル達に弱さを見せてはいけませんので「空」元気を通しました。

(4)395ページ11行目S区長「今のお仕事などは整理できるんですか」、に対し原田「事務所は女房に代わってやります。他の仕事も整理できるめどはできています」と発言したとの記述は事実でありません。

逆に私は最初に口説かれた際「設計事務所を経営しており、継続の仕事がいくつかあり、今すぐ止めるわけにいきません。」とお断りの理由として発言しましたが、S区長は「区長やりながら設計事務所の仕事を継続できますよ。」と言われ、私が内心「S区長はノー天気な方、嘘でしょー。」と感じました。私は「妻」と発言します。「女房・・・」はS氏の創作そのものです。

(5)397ページ12行目任期末を控えた平成15年12月末頃と思いますがS元区長と面会した際「S元区長達の力は必要ないという風に受っとってよいですか?」は事実と異なります。「S元区長には大所高所でご指導賜りたい。」と発言をしました。しかし、その段階ですでに原田はずしが進行していました。理由は、港区の官製談合にメスを入れ契約改革をし、開発利権に監視の目を向け、かつ、酒を飲まず仕事をバリバリ進めるやりかた、私の高学歴の経歴など、S氏と異なる手法に嫌気がさしたということです。平成15年12月に港区を水面下で動かす民間人K氏が妻に「後継者が出ますよ。」と直接言われました。K氏から「選挙で負け、借金ができ、事務所も立ち行かなくなったらどうしますか?」と半ば恫喝と受け取りました。

(6)425ページ10行目「12月原田氏が手土産もって挨拶に来た」は事実ですが、お世話になったという意味と体調いかがですかという表敬で年2回継続的にご挨拶に伺っていました。特別な時期に伺ったわけでありません。

様々な状況から原田の印象を貶めるという意味があったのでしょう。一方で、当初、S氏は院政を敷きませんと当初発言されていましたが、文脈から、区政で最大限の影響力を行使していたことが分ります。中卒で港区役所に就職し、夜間高校、夜間大学で苦学された立身出世の方で、長年区役所でお勤めでしたから隅々まで人脈を構築し、影響力を発揮されていたようでした。

南カリフォルニア大学学生用医療センター、婦人科医のセクハラ報道

ニューヨークタイムズ5月21日、「5人の南カリフォルニア大学女子学生がキャンパス・ドクターのセクハラ行為に対し大学を訴えた」と記事。南カリフォルニア大学はカリフォルニア州内で名門大学の一つ。学生の健康のため大学の医療センターがありますが、婦人科医師ティンドールが女子学生に対し長年セクハラ行為があり、放置、問題を隠ぺいした大学の責任を問う訴訟です。記事の表現はリアル、率直です。アメリカ式?、日本の新聞でこのような表現は無理でしょう。

一例です。18歳の女子学生曰く「腕全体を膣内に入れて行くぞ」と言って診察した。別の女子学生曰く「胸をまさぐりながら性的な質問をした。」別の女子学生曰く「裸の体をまさぐりながらアナルセックス、オラルセックスを求められた」などなどです。とんでもない医者、それをチェックできな大学当局。婦人科医ティンドールに対しロス市警が刑事事件として動き出したとのことです。

過日、アメリカの女子体操チームのドクターがセクハラ行為で懲役100年以上(10年でありません)、罰金500億円でした。懲役刑の期間の考え方、罰金の考え方が日米で全く発想が異なります。

ニューヨーク市の犯罪減少、一方、ロンドン市は急増

2018年6月1日ニューヨークタイムズに、ロンドン市の殺人件数が急増しているとあります。前年比44%の増加です。30年前1988年ロンドンを訪問し、友人のO氏(当時イギリスの軍事大学に研修留学中)に案内いただいた際、ロンドンにはアメリカと異なりスラムのような地区はなく、安全な都市であると説明を聞きました。ニューヨーク市は1990年の2245人をピークに最近は殺人事件がない日もあります。「激減」しました。一方ロンドンでは急増。

治安問題の安定化は時間を要します。私が仕事する港区の六本木地区も犯罪が増加しています。犯罪を起こさない環境整備が必要です。行政や警察の真摯な取り組みが必要です。

柴田徳衛先生の訃報、ご指導いただき大変お世話になりました。

先日新聞の訃報欄に柴田徳衛先生の訃報記事がありました。94歳、ご長寿の方でした。31歳の時の小論のご指導から始まり港区長時代まで様々ご指導、お心遣いをいただいた方です。感謝でいっぱいです。柴田先生は元都立大学敬勢学部教授、都市問題の大家です。その後美濃部都政の時、都庁の企画調整局長に就任、その後、東京経済大学教授として都市経済を長年担当された斯界の大家です。

1980年アメリカのコミュニティカレッジについて小論をどこかの専門誌に寄稿したいと思っていたら都庁の課長だった柴田先生の教え子の一ノ倉さんから「柴田先生をご紹介してあげる」とのことで、ご紹介をいただき、小論についてコメントいただき、ぎょうせい(出版)の「地方自治」に掲載することになりました。気さくな明るい方でした。

その後、毎月1回(定例で第3木曜日の夜)杉並の自宅で勉強会を開催しているのでよろしかったらご参加くださいとお誘いをいただきました。毎回話題を提供する方のお話が興味深く、都合が付くときは参加させていただきました。また、自らも話題提供することがありました。

アメリカから著名な研究者が東京研究で来日し、柴田先生がホストでお世話する際に私にもお誘いの連絡があり、ご紹介をいただきました。1988年には「世界都市東京」(発注は日本政府のシンクタンクの総合研究開発機構)をまとめたニューヨーク行政研究所(その後ニューヨーク大学教授)デイヴィッド・マメン氏を紹介いただきました。1988年私はニューヨークを訪問、マメン氏にお世話になりました。94年ニューヨークを訪問、柴田先生とニューヨークで合流、ご一緒させていただき、有名なスラムのサウスブロンクスなど視察しました。

柴田先生の教え子には都庁や市役所などの公務員になった方が多く、柴田ゼミで多くの公務員と出会いました。その後、港区長に就任した際、大変助けていただきました。

港区長に就任した際、港区内のローカルな中華屋さんで数人の教え子と一緒にお祝いの席を用意いただきました。また、退任後、ご苦労さん会もご用意いただきました。経済学と建築ということで分野は全く異なりますが、私が博士号を取得した際にも柴田先生がお祝いの席を設けてくださいました。心遣いをたくさんいただきました。それぞれ唯一の会でした。

地方政治、ニューヨークの大都市問題など柴田先生から多くを学ばせていただきました。ニューヨークの話は柴田先生の受け売りです。柴田先生はいつもニコニコ、心が和む先生でした。ありがとうとうございました。合掌

 

 

アメリカで初めて言えたジョーク

1969年早稲田大学の交換留学生としてオハイオ州のThe College of Wooster(人口2万人の市、クリーブランドから南へ100キロ)で学びました。英語での授業、英語での会話に大変苦労したこと今でも覚えています。キャンパスから町の中心まで徒歩15分。友人から教えてもらったコップに直接入れお湯を沸かす小型電気ヒーターを買いたい思い、商店街をぶらぶら歩きしました。ある店に立ち寄り、店番をしていた中年の女性に「コップに入れお湯を沸かす小型の電気ヒーターがないか」と尋ねたところ「ない、ウェアハウス(倉庫状の日用雑貨店)ならあるのでは」との説明。私は思わず「ウェア?(どこにその店がありますか)」と聞き返しました。そしたらその女性が大笑い。「ウェア」に「ウェア」を掛けました。意図的ではなく偶然発した言葉です。アメリカではじめて使ったジョークでした。なぜか、このジョークは今でも思い出します。

1971年、フィンランド、ユヴァスキュラ警察署見学、留置場まで見学

1971年7月スウェーデンに留学した際、夏季休暇を利用し隣国のフィンランドに渡り大好きなアルヴァー・アアルトの建築を見て歩きました。ユヴァスキュラ市に到着、アアルトがデザインしたユヴァスキュラ大学のデザイン、キャンパスプランニングを見学しました。タイルの使い方、天井のデザイン、屋根を支える木造のトラス工法、照明デザイン、クール・温かいインテリアの色使いなど感激しました。さらにアアルトがデザインしたユヴァスキュラ警察署を訪問しました。デザインはユヴァスキュラ大学含めたアアルトのデザインそのもの。入り口に入り、受付で「日本から来た建築の学生ですが見学させていただきたい」と英語で挨拶。たまたま夜勤明けの警察官が「どうぞ」と快く即OK。(上司に了解得なくてよいのかなと不安に思いましたが)かつ、その警察官が中を案内してくれることになりました。地下室にある留置場も案内してくれました。アアルトの得意な白のインテリアでした。酔っ払いが1人留置場の床で寝ていました。後の留置室は空っぽ。その程度の安全なフィンランドの町と思いました。このような素敵なインテリアなら私も一泊ぐらいさせていただいてもよいかと思いました。今日のようなテロの不安な時代は見学は難しいと思います。しかし、フィンランド警察官の弾力的な判断、親切に感謝です。