月別アーカイブ: 2017年3月

フィンランドの指導的建築家ピエティレ、アメリカの指導的建築家ジョンソンと会って。

フィンランドを代表する建築家、私の若い頃はレイマ・ピエティレでした。彼の作風は私の好みでした。1971年スウェーデンに留学した際、せっかくの地の利を生かし、できたらピエティレに会い、氏のデザイン論を聞いてみたいと思い、フィンランド人の友人に建築家の住所録を調べてもらい、ピエテレ氏に面会のお願い状を出しました。直筆のはがきの返事がありました。(今でも大切に保管しています)面会OKとの回答でした。大喜びで氏の事務所(ヘルシンキ市内)を訪問、スタッフは数名)氏と面会、氏の建築デザイン論を聞きました。フィンランドの大統領官邸は氏のデザイン。(日本なら大手の設計事務所しかそういう仕事ができない制度がおかしいです)22歳の建築学科の学生にとり、フィンランドの代表的な建築家から直接デザイン論を聞くことができ大いに勉強になりました。ヘルシンキ工科大学の学生センター、タンペレ市の教会などが氏の代表的作品です。表現主義、自然のフォルムがモチーフです。

アメリカを代表する建築家、当時は、フィリップ・ジョンソン。モダニズムをベースに、ガラスと鉄の建築デザインをしました。氏の実務上の恩師はドイツ生まれ、アメリカで活躍したミース・ファン・デル・ローエ。1975年ライス大学建築大学院に留学中、ニューヨークに行く機会に氏に面会をお願いしました。幸い1時間いただきました。マンハッタンのパークアヴェニューに面したシーグラムビル(当時の名前)にある氏の事務所を訪問しました。冗談の好きな方でした。ストライプの濃紺のスーツ。氏の事務所では所員はスーツを着ながら図面を描くそうです。というのは、クライアントが一流企業で、打ち合わせに呼ばれた際、服装も大切な要素であるとのことで、常時スーツを着ていたそうです。氏は30代中盤にハーヴァード大学デザイン大学院を修了。大金持ちだったので修士設計は実際の建築を作ったとのこと。氏の自宅は広大で、氏がデザインした建築が分散立地し、氏の死後は建築の美術館になったそうです。

今思いますに、若さ故のズーズーしさ、学生のズーズーしさ、よく言えば挑戦心で、世界のトップレベルの建築家に面会し、デザイン論を吹っ掛ける風変わりな学生でした。私の特技でもあります。

出会い、別れ、死生観、

留学で多くの方との出会いがありました。一方で、別れが必然でした。1969年留学した時、円ドルの交換レイトは1ドル360円。日本の大卒の初任給は3万円以下。アメリカは500ドル。18万円。ロサンジェルスまでの飛行機代は25万円程度。父親の月給は11万円。約300ドル。経済的にアメリカに簡単には行けない時代でした。また、国際電話料金は1分3ドル(約1000円:学生の1日のアルバイト料)電話も経済的には不可能でした。

留学し、教授たちに親切にしていただき、多くの友人ができ、親切にしていただきました。休暇に多くの友人宅にご招待いただきました。貧乏学生にとり、ホテル代を節約でき、かつ、家庭料理をごちそうになるのは、アメリカの生活体験をできると同時に旅行費用の節約になりました。

留学が終わると、先生や友との別れが来ます。経済的理由もあり、2度会うことができない、また、国際電話料金も高く電話で話もできない、ということで、ある意味で、永遠の別れと同じことでした。多くの先生や友人といわば死別するような気持ちでした。それを3度体験しました。精神力が強くなりました。宗教に詳しくありませんが、死生観も私個人の考えを構築するようになりました。広い意味で、3度の留学を通じて、出会い、別れと、すばらしい体験ができました。3度の留学をしたというと自慢話をしていると一方的に誤解する方がいますが、その方々ができない、わからない体験を多くしているということです。異なる体験をしたんだねと言ってくださるとよいのですが。人生様々です。

港区長秘話64、「俺のほうが民間人的、原田さんのほうが役人的」

港区長の仕事をし、しばらく経過した時、元区長のS氏を訪問した際「原田さんの仕事ぶりを見てると、原田さんのほうが役人的で、俺のほうが民間人的だなー」と言われました。真面目に仕事をしていることに対しある種の皮肉の言葉と受け止めました。氏は毎晩のように銀座で飲む生活に生きがいを感じていたようです。私はホステス侍らせ酒を飲ませる接待は好きでありません。生き方、人生観さまざま。私には私流の生き方しかできません。ある時、ある人から聞いた話「原田さんは俺の言うことを聞かねんだー」と元区長Sさんが言っていたとのこと。これは約束違反。区長選出馬の際、当時の区長は「私は院政を敷きません。原田さんのお好きなように仕事してください。自ら決定し、自ら具体化してください」と言われました。

俺の言うこと聞かないという内容は、港区の公共事業の契約に口出すな(官製談合に目を光らすな)、カラオケで演歌を歌え、外国の歌を歌うな、経歴を語るな(設計事務所の社長をしていましたでは区民の理解と支持が得られないので、若い時海外留学3度挑戦した、挑戦心ある人物ですとアッピールしたかったのです)という程度の内容でした。文化摩擦、価値観、人生観の違いです。S元区長は異文化理解と言いつつ、役人と違う人生があるという異文化理解をしようとしませんでした。

エールフランスの機長の機転。到着ゲートを変えた。東京便に間一髪間に合った。

1999年11月ベルリンで国際建築アカデミー「ベルリンの壁崩壊10周年記念建築シンポジウム」が開催されました。日本の恩師の菊竹清訓先生のお誘いでご一緒しました。会議の2週間前に言われ、急でしたので2日間だけの出張となりました。ベルリンには国際空港はありません。パリ経由でベルリンに行きました。スーツケースはなし、ビジネスバッグだけという手軽な出張でした。ベルリンは美しい都市でした。再開発で工事現場が多くありました。

無事会議が終了、ベルリンのテーゲル空港からパリ経由で東京に戻ることになりました。ベルリン空港にタクシーで到着した際、ちょうど、ゴルバチョフがベルリンに到着、警備で異様な緊張感がありました。パリ行きのゲートで待っていると、予定時間になっても飛行機への搭乗案内はありません。病人の搬送の都合で飛行機内の座席のレイアウト変更の作業中とのことでした。2時間以上を要しました。

当初の日程では、パリのドゴール空港に到着し(ゲートはヨーロッパ域内の国際便用のターミナルB)、東京便用の国際線のターミナルFに15分かけ徒歩で移動し、エールフランスの東京便に乗り換える予定でした。いわゆる変更の効かない「安売りチケット」での旅行でした。ベルリンを2時間以上遅れて出発、機中で時計を見ながらどう考えても、パリのドゴール空港に到着し、ターミナルBからターミナルFに移動し、東京便に間に合いそうにない、すると、東京までのチケットが無効になり、再度、正規料金で東京までのチケットを購入しなければならない、という考えが頭をよぎりました。すぐ、ステュワーデスを呼び、事情を説明しました。ステュワーデスは「了解しました。機長に相談します。遅れたのはエールフランス側の責任です」と対応。私は機長に相談すると言ってどうなるか不安でした。パリ、ドゴール空港に着陸。到着したゲートを見て驚き。予定にあるターミナルBでなく、なんと、ターミナルFの東京便があるゲートの隣でした。飛行機を飛び下り、走って東京便に乗りました。鉄道駅のホームで「発車前の駆け込み乗車はおやめください」のアナウンスがありますが、まさに、駆け込んで乗りました。エールフランスの機長の機転と、管制塔の「弾力的配慮」でした。日本の役員はこうした弾力的解釈を学ぶべきです。

更なるエピソード2件。(1)パスポートに入国スタンプがありません。東京からパリに到着した際、なぜか入管ゲートで入管職員はおらず、スタンプの押印はなし。パリからベルリンはEU圏ですから入管審査はなし。ベルリン出国の際、パリ便ですから国内便扱い、入管の出国審査はなし。パリのドゴール空港では上記の状態で、出国審査なしでベルリンから東京便に乗り換え。パスポートにはどこの国に行ったのか不明。成田の税関で私はビジネスバッグ1つ。訪問国の入国、出国スタンプがなく訪問先不明。税関職員が「お荷物はそれだけですか?」と怪訝な顔。手荷物のお土産もなし。特に怪しまれもせず「どうぞと行ってください」と荷物検査はなし。この時のパスポートは今でも持っております。成田での出国と帰国はスタンプがありますが、氏訪問先のスタンプがない不思議なパスポートです。(2)国際会議のたびに家族へのお土産を買いませんでした。その反省で、今回は予定ではパリのドゴール空港で2時間の待ち合わせ時間があるので、空港内の免税ショップで何かお土産を買って帰ろうと本心から思っておりましたが、上記の状況でお土産を買えず手ぶらで帰国しました。面白い体験でした。ベルリンの建築視察についてはまたいずれ。

 

 

港区役所の裏金?

港区長在任中時々ニュース番組で官庁や自治体の裏金問題が報道されました。港区は大丈夫かと思いました。区長退任後数年経過してから某職員から裏金「らしき」存在を耳にしました。その手のお金が存在しないものと期待を抱きつつ信頼しますが、議会、監査委員などはそうした分野にもメスを入れる必要があります。調査して白となれば「ない」と自信を持って公表したらよいです。一方で、問題は、議会や監査委員の調査に対しやる気と調査能力です。

アメリカの軍人、警察官のオープンさ、ニュースで目撃、

現在、防衛省で南スーダンの日報の公開について問題になっています。アメリカ滞在中、テレビニュースを通して、アメリカは自由な国だ、オープンな国だと感じました。一方、文化、伝統で、重箱の隅をつつく、揚げ足を取るのが好きな日本の政治状況では、オープンな議論は困難と思います。

1969年アメリカ、オハイオ州のThe College of Woosterに留学、夕食後、7時から8時まで1時間NBCテレビのニュースを1時間見ました。ブリンクレー&ハントレーという2人の男性キャスターによるニュース番組です。日本では当時キャスターによる報道でなく、朗読するニュース番組が主流でした。当時はベトナム戦争が盛んな時代。毎日ベトナムからのニュースが報道されました。ある時驚きました。NBCの特派員が戦闘現場から報道。近くに潜むベトコンから機関銃の銃撃があり、身を伏せ機関銃を撃っているアメリカ兵の隣に身を伏せながら「ベトナム戦争をどう思いますか?」兵士「個人的には戦争反対だ。命令だから戦闘に参加している」と銃撃をしながらインタビュー。アメリカ人的、陽気なインタビュー。銃撃現場での死を覚悟しての取材、そして、米軍兵士は表現の自由を行使。なんて自由な国だと感じました。

2度目の留学の際、1975年クリスマス休暇でニューヨーク市の友人を訪ねました。12月の末、ニューヨーク市の国内線用のラガーディア空港で爆発事件が発生しました。その現場でニューヨーク市警の捜査官がテレビのインタビューに答え、状況説明をしました。捜査官がまるでニュースキャスターのようでした。日本ではありえません。現場で即説明するのがアメリカ流の警察の情報公開の手法です。幸い規模は小さく、犠牲者はいませんでした。

日本の行政は、警察も防衛省も含め、秘密に該当しない情報をどんどん公開すべきでしょう。しかし、一方で、政府を攻める野党の情報公開のレベルはどうなのか、問題を感じます。観光旅行、特に、議員や行政の方々はアメリカに視察の際、ホテルでテレビニュースを見たりして情報公開の程度を確認し、自らの情報公開レベルを評価し、改善を図るべきです。多くの国会議員、都議会議員、市議会議員など海外出張している割には、上記の趣旨のような報告書を見ません。

留学中、様々な国からの留学生との交流、価値観、視野が拡大

3度の留学で専門領域の最先端の勉強ができました。(学んだいくつかは先進国日本で未だに実現できていないことがあります)同時に多くの国からの留学生と友人になり、日本では学べないことを学ぶことができました。特に1974年フルブライト留学生としてライス大学建築大学院に留学した際、学生は社会人経験者が多いので、大いに視野を広めることができました。

まず、驚いたこと。男子学生の多くは兵役経験者。警察官は人を逮捕するのが仕事。軍人は相手を殺すのが仕事。つまり兵役で人の殺し方を学んだ連中です。うっかり喧嘩できないと自覚しました。

アジア勢では韓国、台湾からの留学生がいました。3年間の兵役だったそうです。韓国からの留学生は38度線でパトロールしていたそうです。

イスラエルからの留学生、パレスチナからの留学生(国籍、パスポート上はクウェート人)、レバノン、トルコなど中東からの留学生もいました。イスラエルの留学生とパレスチナの留学生はクラスでは絶対口を交わしません。日本は双方にとり中立なので私はそれぞれの留学生と友人になりました。イスラエルからの留学生は、「自分は第3次中東戦争の際戦車隊長で、エジプトに攻め込んだ」と武勇談。氏は既婚者で時々氏のアパートに呼ばれ、奥さんの手料理をごちそうになりました。また、氏から私的な悩みの相談相手となりました。

パレスチナの留学生ミラチッツ氏はクウェイトの国際空港の設計を担当(基本設計は丹下先生)、日本に親近感を抱き、氏からよく声をかけていただき、余った製図版をプレゼントされたり、クウェイト料理をごちそうになったりでした。クウェイトは産油国で財政は豊、税金がないと聞きました。

レバノンからの留学生タベッツ氏、レバノンも内戦で国が破壊されました。タベッツ氏は優秀な学生でオールAでした。他のレバノン人に聞いたらタベッツ家というのはレバノンでは名門の家系だそうです。

物理学と分野は異なりますがアフリカ、ウガンダからの留学生がいました。フルブライト奨学金で留学です。同じ仲間です。国に奥さんを残して単身留学。経済的理由です。氏とは、ヒューストン到着後、アパートが見つかるまでの間、安ホテルで同宿しました。フルブライト委員会の現地の世話役がもったいないから安ホテルで2人でシェアしろとの助言でした。安ホテルの近くにマックのハンバーガーショップがあり、氏を連れハンバーガーとコーラを夕食にしました。その程度のお財布状態でした。貧乏学生を体験しました。私は1969年に一度留学していますからマックの味を知っていますが、氏にとり初めての体験。おいしいおいしいと食べていました。ウガンダは当時アミン大統領という独裁者の政権。アミン大統領の批判の言葉を氏から聞きました。私も20歳の時、初めてアメリカで体験した時と氏のマックの味評価は同じ状態でした。氏は頑張り頑張り5年間で物理学の博士号を取り、ウガンダに帰国、現在は、ウガンダの名門大学で教授を務めているようです。(ライス大学同窓会名簿に記載されています)まさにフルブライト留学の哲学を実現した一人でしょう。

日本国内で世界史や、国際政治の講義で聴けない生の話、体験をしました。祖国の発展を背負い、それぞれの留学生ががんばる姿を見ました。留学のメリットです。井の中の蛙にならないよう、一度は世界のどこかで勉強、体験をするとよいです。狭い区議会という世界で怒鳴ったり、偉ぶったりする議員が若干名いました。世界を見てみろと言いたくなりました。井の中の蛙の幹部職員もいます。

トルコからの留学生、ヴェフィーク・アルプ氏とは現在も交流が続きます。氏はライス大学で博士号を取得。博士論文執筆では大変な苦労をしたそうです。その後イスタンブール工科大学の建築学部長。国際建築アカデミーのメンバー(私も国際建築アカデミーの客員教授を拝命)、その後、2000年頃(私の港区長時代)トルコの首相補佐官(インフラ担当)に就任。今ではトルコの代表的建築家です。

港区は大使館が80あり国際都市と称されています。残念ながら行政組織として他の自治体と変わりません。国際理解、異文化理解と標榜していますが、私の視点からすると国際理解分野では課題山積です。また私の周囲には頑張って勉学に励んだ友人が多くいます。残念ながら私を推した元区長S氏やその周辺にはこうしたことを理解することは難しかったようです。

港区長秘話63、高輪台小学校建設工事契約の不正

区長在任中、高輪台小学校の工事契約で不正がありました。後で知り対応ができませんでした。O社が受注しました。しかし、K社に丸投げしました。一括丸投げは契約違反です。

港区の事情通、麻布十番のK氏からの情報がありました。結果的にだまされ、利用されました。K氏の話「高輪台小学校の工事は地元の区議(官製談合の元締め)のまとめでT社に決まっている。問題だ。」公正を第一にする私はT社の東京支店長に「T社が受注するとうわさを聞いた。噂通りの結果となれば私は公正さの観点から動く」と直接伝えました。入札結果はO社。良かったと思いました。しばらくして、麻布十番のK氏から言われました。「ありがとうございました。O社から姻戚関係のK社に仕事が渡り、K社にとり良い結果となりました」私は、茫然唖然としました。謀られました。K氏は冷静、かつ、シャーシャーとして語りました。港区の契約は問題だらけ。私は積算書をチェックし、かつ、公正な契約を推進しました。官製談合勢力にとり邪魔者でした。排除したかったのです。武井区長と2人の副区長は、積算書も分らない、契約の公正さの意識も十分でないからそうした勢力にとりやりやすい政権です。

港区客引き行為等の防止に関する条例、実効性の課題

平成29年4月から港区全域で「客引き行為等の防止に関する条例」が施行されます。六本木で35年仕事をしている立場、東京で初めて危機管理担当の警察官を採用した前区長の立場で課題提起をします。

従来も客引き対策はやってきたというのが武井区長の見解。しかし、六本木の歩道上に「客引き行為は条例違反」と看板が掲示されているだけです。また、商店街が中心となり、年間に数回、客引き防止のPRのパレードを夜の8時にする程度の運動でした。防止の実効性はありませんでした。

豊島区の池袋で、区役所の危機管理担当が商店街と一体となり、民間の警備員を活用し、客引き防止のパトロールをし、客引きをしている人物を見つけると直接声掛けし、防止対策をしています。私は2年前六本木商店街の理事長や幹部を連れ、池袋の客引き防止に活動を視察しました。六本木商店街として港区に陳情に行きました。池袋を参考にし、客引き防止対策をするようにとの内容でした。私なら「すぐやる」所ですが、武井区長は、やっと、客引き防止条例を施行することにしました。

気になる課題があります。たとえば六本木で客引き行為があるのは9時以降から深夜です。区の職員、あるいは委託を受けた警備員が何時から何時まで防止対策の業務をするのかです。また、どの程度の人数を動員するかです。そして、どのような方法で客引き防止を監視し、注意活動をするかです。行為を是正しない場合、氏名、住所、店舗名を公表すると書かれていますが、どのように、氏名、住所、店舗を特定するのか、疑問です。従来のように、区役所のアリバイ作りのような「やってますやってます」と言いつつ、実態は看板を出しているだけですが、区長の責任逃れのような対応では困ります。実効性のある活動を期待します。武井区長は一人で繁華街を視察し、どの場所に、どの時間帯にどのような国籍の、どのような内容の客引きが発生しているか調査すべきです。私は調査を自らしてきました。典型的なお役人体質の武井区長(私の区長時代は人事課長)にはしっかりと自らの行動で状況認識をしていただきたいです。

アメリカの市長(ニュージャージー州ホボケン市)による住民説明会の司会進行

アメリカ、ニュージャージー州にホボケン市があります。ニューヨーク市のハドソン川に面した20万人の市です。フランク・シナトラが生まれ育った町として、また、マンハッタンの景色を眺めることができる町として有名です。私のアメリカ人の友人マイケル・クリーガー氏がホボケン市で顧問を務めてました。(弁護士で法学博士)。氏からホボケン市のウォーターフロント開発の住民説明会の議事録をいただきました。5㎝以上の厚さです。

私も区長時代の体験、あるいは、一区民としての体験で、自治体の説明会の形式を承知しています。ホボケン市の議事録を読んで驚きました。日本では、係長か課長が司会進行役、区長や部長が挨拶し、場合により退席、関係の課長が質問に回答する進行です。

ホボケンでは市長が開会の挨拶、司会進行、市民の質問に回答、全て一人でこなしていました。市長の役割、期待される仕事がわかります。1988年ニューヨーク市を訪問し、都市計画委員会を傍聴しました。その際、コッチ市長が部屋に入ってきて、市民の質問に回答しました。市長が直接市民に語ることの重要さを感じました。一方で、市民や、議員が市長の話に重箱の隅を突っつくような、また、揚げ足を取るような行動をしないということが前提にあります。日米のディベイトの経験の差、違いです。議会での議論のまずさについて、いずれ、実例を紹介します。私の体験です。1988年、1994年、1998年と3度ホボケン市のウォーターフロント開発を視察しました。ニューヨーク市を訪問する機会があれば、ニューヨーク市の対岸側ですので、ぜひ、ホボケン市を訪問してみてください。