月別アーカイブ: 2020年4月

港区長にインテリはいらない。

平成16年1月、区長選挙の半年前の時期でした。自民党港区副支部長のTさん(長老の民間人)から「港区長にインテリはいらない」と言われました。真面目に仕事する姿勢に嫌味なお説教でした。言わせた人がいるだろうと想像しました。学歴がすべてではありませんが、過去の港区長の経歴は、専門性という観点から高学歴の方はいませんでした。人、売りは様々です。私の場合は長期にわたり様々なところで学習したことが生きるための武器です。それを生かせる環境で生かさないと私の場合は生きてゆけません。お互いそれぞれの武器に対し敬意を表さないといけません。

大手組織だから安心は誤解。結局は担当者次第。

建築デザイン、建築・都市分野コンサルを40年続けております。一匹狼(本当はヒツジ、若干のスタッフはいます)でやってきました。私の考えを理解いただき仕事をご依頼くださる方がいる一方で、大手組織の方が信頼できると大手信仰の方も多くいます。大手だからと言っても、一部のスタッフが担当するだけです。

1995年頃有名な大手シンクタンクに勤める先輩から電話がありました。「某区から3000万円の予算で高齢者問題の調査と政策立案の仕事の相談を受けたが、テーマに経験ある担当できる研究員がいない。仕事を受注した場合原田さん担当できないか?」、原田「喜んで担当させていただきます」と回答しました。私はそれまで個人で多くの自治体の高齢者政策の立案、高齢者住宅、高齢者向けの施設の設計をしてきました。結果的にその大手のシンクタンクは仕事を断ったとのことです。

既にブログに書きましたが、私が区長に就任した時、港区スポーツセンタープール棟、日本で2番目の大手の設計事務所が設計しましたが、私が積算書をチェックし、2000万円減額させました。大手設計事務所の積算ミスです。また、積算チェックしなかった当時の港区施設課のミスです。また、赤坂特養、中堅の設計事務所が担当しましたが、積算書を私自らチェックし、3億円の減額を指示しました。中堅設計事務所のミスというよりでたらめで、また、港区施設課のチェックせず、ということででたらめでした。

さらに、1985年設計した港区庁舎ですが、これは日本で最も大きな設計事務所の設計ですが、大きな設計ミスを区長就任後、見つけました。これも原田敬美のブログに書きました。私は区長に就任し発注者の立場になったとき、大きい組織だから安心だというのは誤解で、人を選べと指示しました。

ライオンズクラブ月刊誌。年功序列の問題指摘。

港区長時代ライオンズクラブの名誉会員(?)になり、その後現在も月刊誌を送っていただいています。最近の月刊誌に国際クラブ役員の年齢の問題指摘がありました。日本人の役員は60代、70代と高齢で、欧米の会長は40代、50代の若手が多い。日本人は年功序列で60代で役員になりその後理事、会長に就任、結果的に70代になってしまう。欧米では若い方がどんどん会長に就任している。日本も若い理事、会長が出なければという問題指摘でした。わが意を得たりでした。

日本は、組織内の調和が重要、年功が物言う社会体制です。会社も役所の組織も全く同様。出世競争に勝ち抜き、トップに就任した頃には心身とも抜け殻状態というトップも多いのではと思います。アメリカの典型例で大統領。今のトランプは例外ですが、オバマ、クリントン、ケネディなど40代の若い精力的な方が大統領に就任、国家を世界をリードします。

同窓会組織も同様。私がかつてフルブライト同窓会会長を務めた時は60歳。今の同窓会長は80歳近い方。「若い方が同窓会に出席してくれない」と愚痴をこぼしていますが、自分がその大きな原因を作っていることが理解できていないようです。私が同窓会長だった時(60歳)、フルブライトの世界同窓会長会議に招へいされ参加しました。なんとドイツのフルブライト同窓会長、女性で30歳です。オーストラリアの副会長は40歳代。

「年功」という価値観を一度捨て去って、「精力的に動ける」という価値観で選考すべきです。

建築・都市に関する出版計画

過去50年間、多くの国、都市を訪問、多くの建築と都市を見て感激したり、学んだことを再整理し、いくつかの観点に整理し原稿を書いております。今年出版したいと思っております。こうご期待。

1969年から1970年アメリカ、オハイオ州のウースター大学へ交換留学、1971年スウェーデンの設計事務所へ技術研修留学、1974年から1976年アメリカ、テキサス州ヒューストンにあるライス大学建築大学院にフルブライト交換留学。その後、国際会議への出席、多くの都市を訪問、視察しました。日本では考えられない発想の建築、都市計画を体験。また、資料を入手するため、市役所を訪問、市役所職員の親切さに感激、市議会や審議会(公開)に傍聴、議論の実態(ノウハウ)を学びました。そうした体験とその背後にある制度、関係した方からのヒアリングなどエピソードを交え書いています。建築、都市の専門家や政策立案にかかわる方、行政の関係者に読んでいただければと期待しつつ書いております。

一匹狼(本当はヒツジ)ですが、これまで共著含め10冊くらい出版しました。また、自費出版で数冊発刊しました。例えば「原田敬美の原稿集Vol.4」「原田敬美ブログ集」です。すべて一人での作業で、結構大変ですが、使命と思い作業をしております。

1957年アジア型インフルエンザ蔓延と防止について。専門書から学ぶ。

1964年「ウィルスの狩人」という本が岩波から発刊されました。高校生でしたが興味を持ち買って読みました。700円。大卒初任給が2万円の時代ですから高額な本でした。現在も書棚にあります。新型ウィルス騒動で、改めて読みました。過去200年間のウィルス研究発展の歴史書です。その本の200ページのところに1957年蔓延したアジア型インフルエンザの発生、拡大の事実についてです。抄録の形で引用します。

1957年2月中国南西部貴州省でインフルエンザが発生し、避難民(当時共産中国から香港へ避難者が多くいました)が香港にウィルスがもたらした。香港でインフルエンザが発生、拡大。ニューヨークタイムズの特派員が報道。アメリカ陸軍医学センター研究部長ヒルマンが4月の記事を目にし「10%の発生率はただならぬこと」と察し、研究部長が日本の座間にある陸軍406医学研究所に「ウィルスを発見せよ」と打電(古い言葉です)指示。研究所員は直ちに香港に行き調査、ウィルスを獲得、アメリカに送付。ヒルマンは「A型の新しいウィルス株」と発表。5月22日ウィルスを受け取り直ちにワクチン製造に着手、8月12日ワクチン50万人分用意した。

6月アメリカの東部、ニューヨーク州に近いロードアイランド州ニューポート海軍基地で初の罹患者。その経緯として、一つはアジアからのゲートであったカリフォルニア州の一少女が中部のアイオワ州グリネル教会訓練所に持ち込んだ。もう一つはカリフォルニア州のボーイスカウトが東部のペンシルベニア州ヴァレイ・フォージのボーイスカウト大会に持ち込んだ。夏はインフルエンザの閑散期。インフルエンザは拡大しなかったがウィルスはばらまかれた。

冬、アジア型インフルエンザが発生、拡大。当時の「新型」ウィルス原因による死者数は1万人だった。1918年のインフルエンザの死者数の1/20だった。衛生局長バーニーは「ワクチンの速やかな生産と普及がインフルエンザ流行の発生を鈍らせた、何百万人がインフルエンザから救われた」との記述です。

ある種の的確な気づき、それに伴う緊急の対応。先手先手が有効立ったという結論です。今回の事態、歴史を学んでないなという印象です。

顧問先で国税と「支払期」に関し議論。鍵の引き渡しイコール竣工。

建築顧問を依頼されている某会社から国税のことで相談がありました。建築工事の代金の支払いの「期」について、国税と会社の間で見解の相違があるとの相談です。本来は税の問題ですから税理士の範疇ですが、建築に関することで埒が明かず私が引っ張り出された次第です。ショールームの内装工事がある年の4月末に完了、引き渡し、5月にオープン。会社は「4月末に鍵の引き渡しを受けました」が都合で工事費の支払いが若干遅れ5月になりました。会社の解釈は4月に払うべき金ということでした。

建築の常識では、本来は鍵の引き渡しとお金の支払いは同時が原則です。税務署の見解は「5月に工事費を払ったので、竣工日そして支出は5月の「期」の支払いになる」です。さらに税務署は「利益が出たから工事をして利益を減じた」との話もしました。これは暴言の類です。「利益が出るから投資する」のです。私は「建築界の常識で鍵の引き渡しの日が竣工日」「契約書にもそう書いてある」と主張しました。率直な議論を繰り返し、最後は税務署も納得していただきました。

海外出張取りやめました

3月19日から28日までアメリカ、オハイオ州、ニュージャージー州、ニューヨークに出張予定でした。それぞれの市で市長や市役所幹部、地元の大学学長や教授達と面会予定でした。3月の初旬、アメリカCDC(疾病医療センター、医療センターという名前ですが単なる病院でなく、医療行政で強権を持つ政府機関です)が海外留学しているアメリカ人留学生に帰国勧告を出しました。(イコール命令です)また、全米の大学に対し、国際交流をするなと勧告(イコール命令です)を出したと情報をもらい、アメリカ出張を止めました。アメリカCDCが勧告出したタイミングから比べると、日本の外務省の勧告を出した時期は20日遅れ。率直なところ日本外務省は優柔不断です。3月初旬ニューヨークで1人罹患者発生、3月末で6万人です。ゼロから6万人ですから無限大と言えます。急増している状況を日本外務省は正確な認識をしていませんでした。というより認識できていませんでした。私は毎日ニューヨークタイムズを読み、患者の増加率が異常と判断。その判断は結果的に正確でした。私の限られた個人的な情報収集力の方が外務省より勝っていたということです。

5月中旬、客員教授を務めますブルガリアの国際建築アカデミー大会に出席予定でした。延期となりました。評議員同士の意見の集約結果です。会長はイタリア人、ヨーロッパ各国から建築家が参加します。アメリカからも中国からも参加します。罹患者が最も多い国々からの参加ですから賢明な判断です。

6月下旬はパリに美術館の視察に行く予定でした。これもキャンセルしました。海外出張はローコストで行かなければなりません。早割、安売り、返金の効かないチケットです。また、6月のパリはバカンスシーズンですのでホテルを予約、半金を振り込みました。小規模会社を経営する身からすると3度のキャンセルは大損害。アメリカでは200人くらいが中国政府に損害賠償の裁判を起こしたとのことですが、私も訴訟団に加わりたい気持ちです。

かつてイランイラク戦争が発生した際、イランの製油工場工事現場で多くの外国人技術者が働いていましたが、当時の西ドイツ、韓国は救援のため直ちに軍用機が来て技術者を救出しました。日本の当時の大使は「日本とイランの友好のためイランに留まって欲しい」とノー天気な発言をしたと、現場に勤務していた知人の技術者が「その後ひどい目にあった、大使のバカヤロー」と私に語っていました。日本人技術者は国境まで自力で移動し、国外に出ました。また、トルコ航空がトルコ人技術者を救出に向かった際、空席を日本人技術者に提供し、多くの日本人技術者を救出しました。日本の民間航空会社は救援機派遣について政府からの相談に対し危険だからと「ノー」の回答。日本の航空会社はエリート意識の上から目線だから当然の回答。日本政府は平時は優秀な官僚に支えられスムースに運営されますが、非常事態になると機能しなくなります。リーダーが危機意識の欠如、危機対応の訓練がないし、経験がないのです。

2011年3.11の時も翌日、フランス大使館、ドイツ大使館などは大使館職員が緊急避難するため観光バスをチャーターし、大阪方面に避難しました。また、当時のルース、アメリカ大使はアメリカ人は福島原発から50マイル以上避難せよと命令。日本に留学している留学生に対し帰国命令を出しました。私が主催し3月14日にアメリカ人フルブライト留学生に対し激励会を開催予定でしたが、直ちにキャンセルしました。欧米の方々は危機管理に対し敏感、行動が素早いです。

ジョンズ・ホプキンス大学作成のウィルス患者データ。NHKも読売新聞も引用

3月15日のブログでアメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学の科学技術センターが患者数のり患状態を図表化し、分かりやすく表示している、と書きました。世界中とアメリカ国内の罹患者数の変化を素人でも分かるようグラフ化しています。毎日更新しています。アメリカの大学の社会貢献でしょうか。グラフを作成したらかといって利益になる内容でありません。本来、だからこそ大学が研究力、調査力を発揮すべきです。

全日空ホテル(アークヒルズ内)フロントで大きなミス。

2011年ですから一昔前のことです。UIA(国際建築家協会)の大会が東京で開催されました。私の海外の友人も多く参加しました。スーダンで最も活躍している旧知の建築家も夫婦で参加。家族同士で食事しました。イスラム教徒ですので食材の制限があります。日本料理店にご招待しました。お刺身をおいしいと言って食べてもらったので安心しました。

私はブルガリアの国際建築アカデミーの客員教授をつとめており、ブルガリの建築家とも多くおつきあいをしています。その中の一人の方が会議に参加しました。メールで「六本木ヒルズ内の全日空ホテルに泊まっており、お会いしたい、お渡ししたいものがある」とのメッセージでした。ある夜全日空ホテルに出向き、フロントで友人の名前を告げ、面会に来たと伝えました。フロントの社員が「その方はチェックアウトされました」と私に説明。私は驚き、しかし、フロントがそのように言っているなら仕方ないと、また、六本木の事務所に戻り、「ホテルに行ったがフロントで既にチェックアウトしたと言われた」とメールでメッセージを送信しました。しばらくして返事のメール。「ホテルにいるよ」とのメールに驚きホテルに再度出向き友人と面会できました。彼は、私の恩師に当たりブルガリアの国際建築アカデミー設立者の一人である菊竹清訓先生へのお土産を私に託しました。彼と面会を終え、再会を約束し別れました。

その後、フロントのコンシェルジェデスクに立ち寄り苦情を伝えました。コンシェルジェデスクの職員はすぐフロントに電話し、なぜこのようなミスが発生したか事実関係を調べましたが、回答、説明はしどろもどろ。おそらく恥ずかしい単純ミスだったのでしょう。外国人の名前を、スペルを理解せず、宿泊者名簿で見つけることができなかったのか。アルファベットのスペルも理解できないスタッフだったのかもしれません。

フロント職員のミスでせっかくブルガリアから来日した友人と面会できなくなり、また、恩師へのお土産を受け取ることができなくなったらと思うと、全日空ホテルのフロント職員の大ミスは看過できません。総支配人に苦情の手紙を書きました。しばらくし、お詫びの手紙がきましたが、ミスの原因は不明。当時、私は上下そろいのスーツを着て、丁寧な言葉遣いで(いつものことですが)フロントの職員に語りかけましたが。それ以降、全日空ホテルを使いたくない気持ちです。かつてヒルズ内全日空ホテルに幹部社員として勤務していた知人にこの出来事をお話したら、中にテキパキ処理できないとんでもない社員がいて申し訳ないと謝罪がありました。原因が分からないことに素直になれない気持ちでいます。

六本木のクラブのティッシュペーパーの山。子供から怪訝な視線。

私の事務所は六本木のど真ん中。夜帰宅する際、道路にティッシュペーパーを配る若いお兄さんが頻繁にいます。ティッシュペーパーは結構使うのでありがたい物。広告の内容を分からず、配布されたティッシュペーパーをもらい、さっとポケットにいれます。自宅に戻り、ティッシュペーパーをテーブルの上に山積み。よくよく見るとガールズバー、ナイトクラブ、ホテル(いわゆるカップル用の)などのチラシが入ったティッシュペーパーです。子供がそれを見て「お父さんはガールズバーやナイトクラブで遊んで来たのか?」と言いたそうな怪訝な顔をされます。