日別アーカイブ: 2020年5月27日

スウェーデン留学中カール・クリスティアンソンから出張命令。暖かい配慮。

1971年スウェーデンのカール・クリスティアンソン建築事務所に技術研修留学しました。当時、(今でも)日本では関心が向けられていなかった快適オフィスのデザインです。エルゴノミックス、環境心理学、作業研究などの研究成果を基にデザインをする仕事です。ある時、カールからクライアントのところに一人で出張するよう命じられました。ストックホルムから電車で2時間くらいのオートゥダベリという小さな町だったと思います。車窓から美しいスウェーデンの風景を眺めながらの旅です。駅に到着、日本人学生ですから相手はすぐ私を見つけ近寄ってきました。なんと黒塗りベンツで出迎えでした。会社に到着、何人かのスタッフを面談、ランチをごちそうになり、ストックホルムに戻りました。今思い返しますと、一研修留学生の私ができることはほとんどなかったのではと思いますが、カール・クリスティアンソンがケイミに様々体験させてやろうという配慮だったと思います。カールに感謝です。

スウェーデン社会研究所のセミナーに時々参加します。明治大学と東洋大学の学生が夏休みを利用し、短期間スウェーデンを訪問、社会見学し報告会をします。学生の生き生きしたプレゼンを聴くと嬉しくなります。異文化の体験をし感激した様子が伝わってきます。異文化を体験した学生達は社会で得意能力を発揮し日本社会をリードしてくれると期待します。学生のプレゼンを聴くと50年前の自分の姿を見ているようです。こうした学生の姿を見ていると、先に触れましたが、私の区長時代、元港区長S、政策経営部長N(後年副区長)の国際理解に対する無知、アレルギー、現在の武井区長の言葉だけの「異文化理解を進めましょう」の発言が空しくなります。

フルブライト留学目標で学生時代頑張ったこと。

フルブライト奨学金をいただきアメリカで最高の勉強をしようと学生時代(青春時代)の目標にしました。甲子園球児等と同じ気持ちです。大学院時代のことです。穂積教授の研究室に15人くらいの大学院生がいました。学生時代、燃えたこと。

(1)毎年建築学会に論文を寄稿し、大会で発表しました。5本書きました。穂積研究室の学生の中で学会に論文を寄稿したのは原田一人だけでした。

(2)建築学会の設計コンペに参加、二度受賞しました。デザイン専攻の学生は建築学会の設計コンペに参加することが義務付けられていました。設計課題に対し資料を調べ、データを集め、デザインの構想案を練り、それからA1サイズの図面を5枚作成し、さらに模型を作成し、写真撮影しプリントしたもをの図面に貼り付けます。設計競技ですから、通常の建築設計図と異なりプレゼンの要素としてきれいにレイアウトし、デザイン画として見せる工夫をしなければなりません。提出前の1週間は半徹夜が続きました。大学院生時代の2年間、早稲田大学から受賞したのは原田一人だけでした。指導教官以外に建築学会長であった吉阪教授、そして関東支部長だった安東教授等からお褒めと励ましのお言葉をいただきました。そうしたお言葉は学生にとり最高の栄誉でした。

(3)海外文献調査を毎月やりました。アメリカ、イギリス、ドイツの雑誌を中心に当時の海外の最新の動向を調べました。アメリカの雑誌はArchitecture Records, Progressive Architecture, Architectural Forum、イギリスの雑誌はArchitectural Review、ドイツの雑誌はBaunen + Wohnen。世界の建築デザインの動き、海外で活躍している建築家の名前を覚えました。

(4)英会話の実践。週2回朝英会話学校に通いました。また、授業の合間を縫ってLL教室(Language Laboratory)で英会話テープを聴いておりました。

小遣い稼ぎに西麻布に住んでいた中学生の家庭教師をしたり、雑誌社の図面の版下用のインキング図面作成などアルバイトをしました。このような日常ですから友人たちと麻雀やパチンコに明け暮れるような生活ではありません。東京高検検事長の黒川というバカ検事よりよっぽど生活態度がまともだったと言えます。あの程度の倫理観なら私でも東京高検検事長を勤められたかもしれません。

やっとフルブライト奨学金の試験合格にたどり着きました。前のブログで触れましたが、港区長時代、元港区長S氏や政策経営部長のNから留学の話をするな、フルブライト留学の話をするなとお説教の言葉が浴びせられましたが、青春時代、目標にしたこと、頑張ったことにイチャモンをつけられ、残念でした。